ふみだす ひろしま

広島市に点在する計74箇所の神社仏閣・文化遺産を、今回の企画用に撮影
写真家Minoru Obaraの世界観をお楽しみください

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「狐瓜木神社」

kurumegi jinjya
  • 神社

《御祭神 誉田別命 帯仲彦命 息長帯姫命》狐爪木神社はかつて、弥生時代の祭祀形式である磐境(いわさか:石を丸い形に囲んだ祭場)による祭事でした。相殿に祭る志那都比古神、事代主神の二柱を勧請したのは、貞観二年(860年)=平安時代で、故事を紐解くにつれて、昔この一帯は海であったことが実証されるとともに祭神との因縁の深いことがわかります。そしてその頃に、風伯の神を祀り、神社を中心にして集落を生じ発展していったものと思われます。事代主神は大国主神の御子で、漁村、農村、商家に多く祀られています。狐瓜木神社は八幡宮とも呼ばれ八幡神三柱の勧請は、永観二年(984年)。当時、大神の御稜威(ごりょうい)により大陸から文化の移入が盛んであったので、文化神として八幡神は全国的に最も多く祀られている神です。村の鎮守、氏神として崇敬され、文化神として、また武士の守護神として、家内安全、商売繁盛、交通安全、厄除け、安産、開運、受験祈願などのご利益があるといわれています。

広島市東区戸坂くるめ木1丁目226
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「三宅神社」

miyake jinjya
  • 神社

《御祭神・誉田別命、帯仲彦命、息長帯姫命》創建ははっきりしませんが、旧記によれば明徳三年(1392年)南北朝時代に八幡三神を勧請したといわれており、さらに文禄三年(1594年)に再興、天明七年(1787年)に再建、慶応元年(1865年)に現存の拝殿、幣殿、明治三十七年(1904年)に本殿を造営、昭和四十二年に神饌所を新築しました。往時の鎮座地は南参道下の向かい側あたりにあり、いつの世にか現在地へ遷座したそうです。八幡神は当時、大神の御稜威により大陸からの文化の移入が盛んだったので、文化神として全国的に崇敬されています。 当神社の例大祭の前夜祭には地元の十二神祇神楽を奉納し、花火を競います。戸坂全域は狐瓜木神社(総氏神様)の氏子であり、狐瓜木神社の兼務社としてお守りしています。

広島市東区戸坂数甲二丁目2518
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「琴比羅神社」

kotohira jinjya
  • 神社

《御祭神・大汝神、大国主神、少彦之神》戸坂東山のふもとの滝にあるので、「瀧の宮」ともいわれており、滝口の磐境(いわさか)、すなわち巨岩の屏風岩と釣鐘岩の間を御神霊と奉っています。創立の年代ははっきりしていませんが、万延年中(1860年代)に著述した『瀧の金比羅宮社記』によると、往古の勧請で、建武年中(1334-5年)に足利尊氏が社頭に額面を寄進したと記されています。昔は滝の近くに温泉が湧き出していたといわれ、湯壷(ゆつぼ)、竈石(かまいし)という古名が今も伝承されています。この滝の浸水で湯浴みをすると病がよく治ると、御恩頼をいただくものが多かったそうです。滝の右上の釣鐘岩(岩上に三百歳の老松がある)の下に榊の連理木(二本の木の枝が連なっている)がありましたが、昭和四十年ごろ枯れたそうです。この木の生ずる所は自然に富み、大いに繁盛する瑞祥のしるしといわれていました。医薬の術を世に伝え世人の病患を救療擁護される御神徳があり、宿病が平癒するご利益があるとされ、広く信仰されていたようです。

広島市東区戸坂町687番地
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「長尾古墳群」

nagao kofungun
  • 史跡

長尾古墳群には、現在3基の古墳が残っており、その造営時期は、古墳から出土した土器類から4世紀後半から5世紀代と推定されています。古墳とは土を盛り上げた高塚状の墓のことで、3世紀後半から7世紀頃の古墳時代に、全国各地の豪族によって多数造られたました。前方後円墳は、規模や副葬品などから、それぞれの地域を治めた有力な豪族だけが造ることができた特別な形の古墳だと考えられています。長尾古墳群の第1号古墳は、広島地域でも最大級の前方後円墳であるとともに、現在確認されている太田川下流域の前方後円墳の中で南端に位置しています。これらのことから、長尾古墳群は、古墳時代の前半期のおける太田川下流域を治める有力豪族の存在やその系譜等、当時の広島地域の状況を解明する上で重要な貴跡として史跡の指定を受けたものです。(平成17年3月 広島市教育委員会設置の現地掲示板)

広島市東区戸坂長尾台1
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「皇子神社
天水の名水」

oujijinjya
amazuno meisui
  • 神社
  • 献水

『天の名水』広島市東区牛田新町にあり、原爆の8月6日平和記念式典前に行われる原爆死没者に捧げる献水の内の1カ所です。この献水の行事が取り入れられたのは、昭和49年(1974年)からです。当時の山田節男広島市長が、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で行われていた献水に感銘を受け、水を求めながら亡くなられた原爆犠牲者の方々のために水を供えることは意義深いとして、広島市でも実施することになりました。以来、毎年、献水行事を行っています。当初は、市内10か所の水が選ばれていましたが、その後、地域と深い関わりや由来のある水が加えられ、令和2年には市内17か所から採水されています。各所から集められた清水は、地元住民の代表の方々によって原爆死没者慰霊碑前に置かれた一対の水桶に注ぎ入れられ、慰霊碑に供えられます。この清水は式典終了後、慰霊碑を囲む「平和の池」に注がれています。歴史を学ぶ一つの機会にして頂けたらと思います。

広島市東区牛田新町4丁目7-35
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「自在坂神社」

jizaizaka jinjya
  • 神社

《御祭神・品陀和氣命、稲生神、宇迦之御魂神》古来よりこの地方に鎮座し、猿宮とも称されます。昔は安國寺不動院の守護神として祀られていました。元々八幡社と称していましたが明治3年(1870年)に自在坂神社と改称され、明治5年(1872年)村社に列せられこの地の産土神として現在に至ります。明治22年以降、神田神社の氏子の勧請により、大正初期に神田神社は自在坂神社に合祀したそうです。御祭神である 品陀和氣命は応神天皇、稲生神は稲を象徴する穀霊神、宇迦之御魂神は名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神です。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられています。御祭神を調べる事も多くの学びがあると思います。

広島市東区牛田新町三丁目3-1
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「安国寺不動院」

ankokuji fudouin
  • 国宝
  • 県指定重要文化財
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・聖不動明王/主尊 ・薬師如来》江戸時代の「新山雑記」では、 当寺の開基は僧空窓であると伝えられています。 又、「当山記」には行基が開基とも伝えられていますが、創建年代や由緒については判然としていません。 只、金堂内に安置されている本尊薬師如来像が定朝様式であることから、平安時代には創建されていたと推察されています。金堂(国宝)天井の墨書から天文9年(1540年)の建築と判明しました。不動院は密教寺院ですが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床の一室とする点、中央を鏡天井とし、その周囲にぎっしりと組物が並ぶ天井の構成などに、禅宗仏殿特有の形式が見られます。尚、天井高は8.6メートルに達します。この堂は、もとは山口市の凌雲寺にあり、それを天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊が移築したものです。不動院金堂は広島市唯一の国宝。不動院鐘楼、不動院楼門、木造薬師如来像、木造仁王立像(二躯)、銅製梵鐘、紙本墨書不動院文書は県の計6箇所は県の重要文化財。 塑造無準禅師像、木造聖一国師像、絹本著色両界曼荼羅の3箇所は、市の重要有形文化財となっています。

広島市東区牛田新町3丁目4−9
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「男崎神社」

ozakij injya
  • 神社

《御祭神・帯仲彦命、品陀和気命、息長帯日売命》八幡社とは元々は、八幡神(ヤワタノカミ・ヤハタノカミ)と称し、海神として航海民である宇佐氏が崇敬した地方神のひとつでした。その後、幾度かのご神託を通じて、自らを品陀和気命や応神天皇の化身として名乗ったことから、複数の神格を併せ持つようになりました。とりわけ応神天皇は第15代天皇として実在性が濃厚な最古の天皇とも言われており、八幡神の存在は、宇佐の土着神的な神と歴代天皇という皇祖が結びついた極めて珍しい性質を持っています。男崎神社は創建年は不詳で京都・石清水八幡宮(男山八幡宮)から分霊を勧請した神社となります。その先に被爆建物の覚法寺、被爆建物の(矢賀)熊野神社があり、また奥深い歴史を感じてみてください。

広島市東区矢賀三丁目10-1
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「中山稲生神社」

nakayama inari jinjya
  • 神社

《御祭神・土産之大神、大宮能売神、宇迦之御魂神》広島市東区中山にある稲生神社は、この地域の氏神社です。数年前に焼失してしまった本殿の復興にあたり、再建の取り組みが行われており、本殿は、純木造で三間社流造で銅板葺です。この度の設計では、室町時代前期の意匠を採用し、年代復元考証しました。若葉がシンプルながらも元気に生い茂る手挟(たばさみ)、内部彫刻にほぼ左右対称の稲穂を配した蟇股(かえるまた)、広島地域に特有の蓑(みの)を長く垂らした蓑束(みのづか)などを採用して設計されています。妻面の虹梁(こうりょう)の上に載った大きな板蟇股も、シンプルながらも時代が表れる見所の一つ。これらは、広島大学文学部三浦研究室と協力して行っているそうです。作り手の方々の思いを知り、参拝されると、また違った風景に見えるかもしれません。

広島市東区中山東1丁目7-30
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「清水谷神社」

shimizudani jinjya
  • 神社

《御祭神・帯中津日子命、品陀和気命、息長帯日売命、タカオカミ神、別雷神》清水谷神社の由緒は、神功皇后にまつわる故事に由来します。昔、神功皇后が九州に向かわれた際、当村金碇に船を留め、現在の当村上の白地岩にて3日3夜滞在され、清水にて洗米をしたそうです。その後帰途も立ち寄られた際に、夢枕に白髭の老人現れ、この清水は諸病を治し、飲めば長寿を保つであろうとの御神託を得られました。この由緒をもって、この地に社を建立し、京都石清水八幡宮より御祭神を勧請しました。弘仁14年(823年)春に干ばつが発生した際には、農民達が社に挙がって立願し雨乞いの祈祷をしたところ、たちまち降雨となり、人々はこの上なく歓喜したと伝えられています。弘安4年(1281年)8月、永町城主温品左衛門尉が社殿を再建し、永禄7年(1564年)熊谷九郎少輔平広実が本殿を建立、その後元禄9年(1696年)拝殿造営、寛政12年(1800年)本殿を再建しています。相殿神(同じ社に祀られている他の神)として『市杵島比売命』『イザナミ尊』『奥津日子神』『奥津比売神』『大田命』『天照大神』『火之迦具土神』『大山津見神』『事代主神』『大年神』『大地主神』『國之常立神』『猿田彦命』『少名彦命』『大穴牟遅神』『彌都波能売神』『赤根龍神』が祀られています。

広島市東区温品八丁目13-2
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「畳谷弥生遺跡群」

tatamidani yayoi isekigun
  • 史跡

広島県は、温暖な瀬戸内海地域と標高1000mを超える山が連なる寒冷な山間部があり、多様な自然の姿をもちます。 人々は、その自然の中で古くから生活し、さまざまな活動を行ってきました。その活動の痕跡が土地に刻まれたものを、我々は遺跡と呼んでいます。 県内には17,321箇所の遺跡が確認されています(H17年度集計)が、この数は全国でも6番目の多さとなっています。この畳谷弥生遺跡群は、温品川左岸の北から南にのびる標高100m前後の丘陵尾根上に位置し、弥生時代終末から古墳時代初頭(3世紀)にかけてのもので、尾根の東部、中央、西部の3群から成り立ちます。各群には住居、貝塚、墳墓などがあり、それぞれ完結した生活単位を構成しています。現在、県立安芸高校の敷地内に県史跡として保存されていて無断で行くことはできませんが、お近くを通るタイミングで遠くからでも古代の営みを想像し、色々と調べてみると新たな発見があるかもしれません。

広島市東区温品町
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「馬木八幡神社の社叢」

umakihachimanjinjya no shasou
  • 神社
  • 天然記念物

馬木八幡神社の社叢は、シイを主とする常緑広葉樹林で、コナラ、アベマキ、コシアブラなどの落葉樹もいくらか混生していますが、この地方の暖帯極相林の原形をほぼ保っています。同社叢に多くみられるシイモチは、中国地方西部及び九州に分布する常緑高木で広島市から山口県下の島嶼や沿岸部のシイ林に普通に見られるものの、広島市付近及びそれより北の地域では極めて珍しいです。また、林床にジュズネノキ(常緑小低木)が多いものもあまり例がなく注目に値します。馬木八幡神社の御祭神は神武天皇の母、神功皇后、応神天皇であり、文明年中(1469~1487年)に創祀と伝えられています。

広島市東区馬木5丁目1370番地
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「木の宗山銅鐸銅剣出土地」

kinosouyama douhoko douken shutusdochi
  • 史跡

遺跡は木の宗山の中腹200mの地点に所在しています。現地は狐が城えぼし岩(高さ2m)の下手わずか一坪ほどの平地で、その前面は東にむかって急傾斜になっています。明治24年(1891)に立石の前に横たわる平石の下から、銅鐸1、銅剣1、銅戈(どうか)1が出土しました。銅鐸は高さ19.0cmで、邪視文とよばれる特異な文様をもち、古式の銅鐸とされています。銅剣は長さ39.7cm、銅戈は長さ29.5cmでいずれも実用の武器から退化した型式です。これら弥生時代(紀元前3世紀~3世紀)の青銅器は、山腹の大立石の下から発見されたというその出土状態と、銅鐸の出土地としては西端にあり、しかも銅剣・銅戈などとともに出土する点などに特色があり、古くから研究者の注目を浴びています。

広島市東区福田町
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「早稲田神社神社」

waseda jinjya
  • 神社

《御祭神・足仲彦命、品陀和気命、息長帯日売命》言い伝えによると、『武田氏不動院の向いの武田山山上に安芸の国の守護職の武田氏が居城銀山城を建てられたが、その居城より展望すれば牛田のあたりは方位が鬼門にあたる処から、平安を祈って源氏方の守護神である八幡神を祀り、見立山に「神田神社」、早稲田山に「早稲田神社」を建立した』と伝えられています。特に武道の神として崇敬され、武田氏以来、毛利氏の崇敬厚く、又、浅野氏の入国以来、維新に到るまで家老が代参し、供貢を奉献していました。その後の明治四十二年には、神饌幣帛料の供進の指定社に列しています。旧社殿は古くは浅野藩三代綱長公により本殿が改築され、大正四年天皇御即位の際に、御大典記念事業として改築されました。原爆により半壊しましたが、戦後の混乱期にもかかわらず直ちに復旧されました。昭和三十年、失火により不幸にして消失したものの、直ちに再建奉讃会が結成され、昭和三十五年、現社殿が竣工、四百五十年祭と併せ、奉祝祭が町民挙げての喜びの中三日間にわたり盛大に執行されました。その後、平成二年ご大典記念事業として社殿、資料館の改築、参道の補修等、数次の整備を行いつつ現在に至っています。

広島市東区牛田早稲田2丁目7-38
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「牛田の弥生文化時代の墳墓」

ushita no yayoibunkajidai no funbo
  • 史跡

太田川河口の三角州をのぞむ早稲田山(標高約50m)の東斜面に位置しています。昭和32年(1957)、早稲田神社の再建工事の際に発見された弥生時代中期後半(約2,000年前)の土擴墓(どこうぼ)です。土擴は上縁の直径1.5m、深さ1.5mで、底には20~30cm大の石がすり鉢状におかれていました。土壙の底から70~80cm上部から、頭蓋骨、下顎骨(熟年男性)の一部が検出されました。円筒形の土壙のなかに、座位屈葬の形で埋葬したものと推定される珍しい例です。土壙の上面には、ハマグリ・カキなどを中心とする小貝層があり、弥生時代中期後半の土器片や石鏃(せきぞく)が出土しました。なお、西側傾斜面には、縄文時代早期(約9,000~6,000年前)の遺物包含層が分布し、押型文土器や石鏃などが多数採集されています。

広島市東区牛田早稲田2丁目7
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「安楽寺」

anraku ji
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊、阿弥陀如来、薬師如来》安楽寺は、1533年(天文2年)、現在の場所(東区牛田本町)に建てられました。1758年(宝歴8年)の広島城下の大火で一度焼失しましたが、1788年(天明8年)、本堂が再建されています。爆心地から2.19キロメートルで被爆。本堂や山門は骨組みだけとなり、庫裡も倒壊してしまいました。同寺の木造如意輪観音菩薩坐像(もくぞうにょいりんかんのんぼざつざぞう)は、広島市の重要有形文化財に指定されています。この場所には大きなイチョウの木があり、このイチョウは樹齢350年で原爆の被害にもあったものです。この辺りは石造品などにも被爆跡が生々しく残っており、原爆の歴史を物語っています。

広島市東区牛田本町1丁目5−29
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「饒津神社」

nigitsu jinjya
  • 神社
  • 市指定重要有形文化財

《浅野長政命、浅野末津姫命、浅野幸長命浅野長晟命、浅野長勲命》宝永3年(1706年)綱長公(浅野家第6代・芸州浅野家藩主第4代)の時に、広島城の艮(うしとら/東北鬼門)の方位に当る明星院客殿西方に長政公の位牌堂を建立しました。さらに長政公200回御忌に当る文化7年(1810年)に斎賢(なりかた)公(浅野家第10代)、前藩主重晟(しげあきら)公(浅野家9代)と共に新たに壮麗な位牌堂を建立しました。この位牌堂が饒津神社の発端にあたるものであり、この時奉納された文化年間の燈篭や大石水盤等は後に饒津神社創立と共に境内に移されて現存しています。 長政公を神として奉祀することは重晟公以来内慮がありましたが、天保6年(1835年)11月斎粛(なりたか)公(浅野家11代)が祖先追孝のため社殿を現在地(明星院西方)に造営、二葉山御社と称しました。二葉山の名は饒津神社創祀の際に金葉集・摂政左大臣藤原忠通卿の歌「いかばかり 神もうれしと 三笠山 二葉の松の 千代のけしきを」 新続古今集・後徳大寺左大臣の歌「住吉の 松は昔の 二葉より 久しき事の ためしにぞひく」より藩執政関蔵人らによって命名されたものです。これより饒津神社東方の明星院山であった背後の山は二葉山と呼ばれるようになりました。御神号は京都・吉田良長に草案を依頼し、長懋(ながとし)公(斎粛公の叔父)により「饒津大明神」と定められました。

広島市東区二葉の里二丁目6-34
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「東照宮」

toushou gu
  • 神社
  • 市指定重要有形文化財

《御祭神・徳川家康公、東照宮唐門及び翼廊》広島東照宮は徳川家康公を御祭神にお祀りした神社です。家康公薨去(こうきょ)後33年忌に当る慶安元年(1648年)、当時の広島藩主浅野光晟(みつあきら)公によって、広島城の鬼門(北東)の方向に当たる二葉山の山麓に造営されました。光晟公の生母は、家康公の第三女、振姫(ふりひめ)であったことから、祖父家康公の御遺徳を敬慕すると共に、城下町の平和を願って神霊を祀りました。歴代藩主、社領三百石を付し、広島周辺の崇敬を集め、家康公薨去後50年以後は、五十年毎に盛大な祭典が行われました。 社殿は「二葉山山麓に位置し、観望の美しさは毛利氏が広島に築城して以来一番だ」と云われていましたが、原爆(爆心地から約2,200m)の熱風により、桧皮葺本殿、中門、瑞垣、拝殿は焼失。 現在の社殿は、昭和40年4月、家康公薨去後350年祭を記念して再建されました。東照宮唐門及び翼廊、東照宮手水舎、東照宮本地堂、東照宮御供所(附)脇門、東照宮神輿及び舎利塔、木造獅子頭の計6箇所が市の重要有形文化遺産。

広島市東区二葉の里二丁目1-18
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「明星院」

myoujyou in
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・千手観世音菩薩、絹本著色釈迦十六善神像》明星院は、広島市の東北に位置し、二葉の里の北端にあります。月光山大日密寺と号する真言宗御室派の名刹で、もと南光月素月山妙壽寺と呼ばれていました。住古の開基並びに根本開山の僧名は詳らかではないですが、毛利家・福島家時代の寺伝によれば、明星院の前身妙壽寺は、天正十七年(一五八九)毛利輝元が、吉田郡山城より広島へ移城開府の時、御母儀の御位牌所として建立し、天正十七年より以前に此地存在していたと考えられています。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いの戦後処理により、毛利輝元は防長二か国に減封となり、福島正則が入封となりました。その折、伊予国右手寺の住僧栄鏡を招いて、寺領二百石を附して、真言宗新儀派(京都・智積院末)とし、祈祷寺に命じたのです。正則は芸備両国へ入部すると、毛利時代に領内の社寺に寄進されていた杜寺領のほとんどを没収していますが、明星院は特別の扱いを受けていたと伺えます。

広島市東区二葉の里2丁目6−25
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「鶴羽根神社」

tsuruhane jinjya
  • 神社

《御祭神・帯仲彦命、品陀和気命、息長帯日売命》鶴羽根神社は、建久年間(1190~1191年)に、源三位頼政公(安芸國加茂群西條郷領主)の室菖蒲ノ前が芸州知行せられる折の御遺言によって、元久年間(1204~1206年)に社殿を建立し、御祭神を観請したことが始まりと伝えられています。その際に、修理料として椎木山(現 二葉山)を寄進された為に、往時は椎木八幡宮と称されていました。その後は興亡を繰返しつつも、文政5年(1822年)頃の記録に依る当時は、広島城から東側・八丁堀以東全ての氏神とされていたと記されています。また、門守二神を奉斎、広島城隅・東北之鎮としていた安永4年(1775年)と記されています。天保4年(1834年)2月隣地の明星院鎮國堂より出火、社殿等ことごとく類焼しましたが、同年4月には仮社殿を建立、同6年4月現在地へ所替えとなり、安政3年(1856年)には全て再建しました。明治元年(1868年)朝令の神仏混淆御引分にもとづき、藩主浅野12代 長勲公の撰名により、神社背裏の山形が、鶴の羽根を広げた姿に似ている事から、社名を鶴羽根八幡宮と改め、同5年に鶴羽根神社へと改称。同時に、広島東部総氏神へ列せられ、同40年には神饌弊帛料供進社に指定されました。

広島市東区二葉の里2丁目5番11
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「尾長天満宮」

onaga tenmangu
  • 神社

《御祭神・菅原道真公、大穴牟遅神荒神、少名毘古那神》道真公は、承和12年(845)にご誕生。幼少期より詩歌の才能に恵まれ、勉学にも文武にも秀でた道真公は、天皇をはじめ多くの人々からの信頼を得て、学者・政治家としてご活躍されました。 右大臣まで上り詰めるという破格の昇進を遂げた道真公でしたが、志半ばにして無実の罪を着せられ、京都から大宰府に左遷。その際、当地に着船され、しばらく休息を取られました。平安時代まだこの地は広く海でありましたが、現在の尾長山に明星峰(尾長山)天神社という小さな社がありました。そして延喜3年(903)2月2日5、道真公は太宰府においてご生涯を終えられました。久寿元年(1154)、安芸国守平清盛主従がこの明星峰に参詣の際、山中にて大豪雨と落雷の災難に遭いましたが、九死に一生を得ました。清盛は雷雨の中で知らず知らずのうちに道真公の御加護を熱願していたことに気付き、深く神徳に感銘を受けました。よってこの一帯を信仰の山「菅大臣(かんだいじ)の峰」と名付け、峰に社殿を創建して、道真公の神霊をお祭りすることとしました。これが尾長天満宮の始まりです。

広島市東区山根町33−16
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「國前寺」

kokuzen ji
  • 国の重要文化財
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・釈迦如来》國前寺は、南北朝時代初期の暦応3年(1340年)、日蓮の弟子日像に師事した暁忍が開いたので、当時は寺の名前を暁忍寺と言いました。その後、江戸時代初期の明暦2年(1656年)に、2代藩主浅野光晟、正室満姫(自昌院)が菩提寺としたことから、本堂を満姫が、庫裏・客殿・山門等の諸堂を光晟が建立一新し、寺名も自昌山國前寺と改めました。寄棟造、二重屋根の堂々とした本堂は、残されていた棟札より寛文11年(1671年)の建築であることがわかっています。屋根が寄棟造で錣葺となっている外観が非常に特徴的で、本殿は耐火のために外壁を土塗とした構造物(塗籠)という手法を取り入れており、寺社建築ではかなり珍しいものです。向拝唐破風上の本瓦葺が谷無しで吹き下ろしている手法も城郭建築を彷彿させます。日蓮宗の本堂は西日本ではあまり古い遺構は残存していませんが、その中でも規模が大きく、保存状況も比較的よく、大変貴重な建物です。國前寺本堂 指定区分、國前寺庫裏 指定区分が国の重要文化財。國前寺山門及び参道を構成する境内地、金梨子地家紋散薙、國前寺所蔵自昌院関係写経が市の重要有形文化財です。

広島市東区山根町32-1
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「三瀧寺」

Mitaki dera
  • 献水
  • 国の重要文化財
  • 県指定重要文化財
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・聖観世音菩薩、三瀧寺多宝塔》広島市の北西の三滝山の谷間に位置する三瀧寺は、古くから三滝観音として親しまれています。境内にある多宝塔は室町時代に創建され、戦後原爆犠牲者の霊を弔うために和歌山から移された県の重要文化財で、塔内には国の重要文化財である木造阿弥陀如来坐像も安置されています。また、三瀧寺の名の由来ともなった三つの滝が流れており、この名水は平和記念式典の献水にも寄せられています。その他にも、重要有形文化財の金銅五鈷杵などたくさんの見所があり、春は桜、秋は紅葉の名所としても有名です。自然の美しさや水の音に心を和ませに、散策してみてはいかがでしょうか。

広島市西区三滝山411
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「夫婦楠
新庄之宮神社」

meoto kusunoki
shinjyounomiyajinjya
  • 神社
  • 天然記念物

《御祭神・家都御子神》本社叢は,クスノキ・タブ・サカキなどの常緑広葉樹、ケヤキ・エノキ・ムク・ムクロジュなどの落葉広葉樹からなり、戦前から変わらぬ姿を維持しています。その中、クスの大木2本は,新庄の宮の夫婦楠で,東方のものは婦楠(おんなぐす),西方のものは夫楠(おっとぐす)と呼ばれ,それぞれ胸高周囲5.35m、6.40mに達します。新庄之宮神社は,社伝によると,正慶年間(1332~4)に紀州熊野神社の分霊をこの地に勧請したものと伝えられています。社叢は、県の天然記念物に指定されています。

広島市西区大宮1丁目1−7
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「三篠神社」

misasa jinjya
  • 神社

《御祭神・伊弉諾神、伊弉册神、大年神、大国主神、宗像神、猿田彦神、八幡神、天満天神》三篠神社は、江戸時代に興った各々異なる神を祀る神社を起源として、時代が下る中でそれらの神社や他地域の神社と合併を繰り返すことで成立した神社です。永禄年間、現在の社の近隣に大年神を、大年代明神と称して創祀したのをはじめとして、天正年間、横川往還の東側、楠の木の大木の下に猿田彦神を、楠木大明神と称して創祀しました。その後承応三年、現社地に宮社を造立し、大国主神を、黒皇大明神と称して創祀しました。ここで、大年大明神、楠木大明神を合祀し、明治に至り、黒皇神社と改称します。その後、村の合併に伴い、計7社を統合した社号三篠神社となりました。全町の総氏神として信仰を集め、壮大なる社殿を造営しましたが、原爆のため、樹齢三百年に及ぶ境内木と共に焼失しました。幸いにも御神体は災禍を免れ、しばらくは元熊野神社跡である御旅所に遷御した後、昭和二十三年本殿一棟を造営して再遷御し、昭和四十八年に山手町鎮座である天神社を合併。以来、境内地は都市計画・開発のため狭まりながらも現在に至っています。 

広島市西区三篠町1丁目11-5
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「横川胡子神社」

yokogawa ebisu jinjya
  • 神社

《御祭神 事代主神》横川胡子神社は、安永8年(1779)に横川町の住人谷門二が町民の安栄を祈願して御神像を祀ったといいます。境内掲示による横川胡子神社の由緒は不詳ですが、社伝によると安永八年(一七七九)己亥正月廿日楠木村横川町の住人谷門二が町民の安栄を祈願して御神像を作りこれを祀ったといわれています。以来横川とその近隣の住民に商売繁盛の神として崇敬護持されてきました。昭和二十年、原爆により社殿を焼失しましたが、昭和二十四年現本殿を再建されました。(境内掲示より)

広島市西区横川町1丁目
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「横川橋おかえり観音」

yokogawabashi okaeri kannon
  • 菩薩像

《観音様》西区横川町の横川橋北詰東側に祀られている「おかえり観音」です。
観音様は、元々楠木町一丁目のある区画に小さな大師堂があり、この境内に十有余体の石仏が祀られ、信仰心篤き人々の手で永年に渡って護持されていました。
しかしながら、昭和四十年代の終りか、或いは五十年代の初めであったかははっきりしませんが、この地が再開発されることとなり、仏様たちはその場を追われてしまいました。いつも通る場所にこんな場所があったんだ、という発見のいい機会にして頂けたらと思います。

広島市西区横川町1丁目1
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「旭山神社」

asahiyama jinjya
  • 神社

《御祭神・品陀和気命、息長帯日売命、市杵島姫神、田心姫神、湍津姫神》当社の創建は、大変に古く不明です。伝説によると、御祭神である神功皇后が、仲哀天皇2年(西洋歴193年)に船で九州に向かわれる途中この岬にお登りになりました。その時出迎えたこの土地の県主が大きな鯉を献上したところ、神功皇后は、「おお、こひ、こひ」と大変お喜びになり、この地域を「こひ(己斐)」と呼ぶようになったと伝えられています。この後弘治元年(1555年)10月1日毛利元就が宮島で厳島の合戦に向かう途中戦勝祈願にお立ち寄りになられ、ちょうど朝日が昇り輝いていたことから「縁起がいい」と大変喜び「旭山八幡宮」と名付けたそうです。また、天正17年(1589年)に毛利輝元が広島城を造営する時、その場所を決める為の下見に当社に登ったと言われています。原爆が広島に投下されたとき、当社は爆心地から3㎞弱のため、爆風により社殿は倒壊しましたが炎上は免れました。

広島市西区己斐西町12−10
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「新宮神社」

shingu jinjya
  • 神社

《御祭神・伊邪那美命、泉津事解男命》新宮神社は、1356~1361年に紀伊国熊野三所権現(本宮、新宮、那智社)のうち新宮社を勧請し「光延の新宮大明神」として、現在の位置に鎮座されたのが起源で、祭神は泉津事解男命です。わが国の神様は、天照大御神を初めとして、伊邪那諾命と伊邪那美命との間に生まれられた神が多く、泉津事解男命もその中の一人で、すべての邪気を払いのける神として祭られています。熊野三所権現は前記の諸神を祭ったところであって、早くから諸国にその名が知られていました。古江の新宮神社は古くから泉津事解男命だけを祭り、明治初年に至り伊邪那美命を加えて祭神を二座としました。新宮大明神は古江中郷の氏神であり、その外に向原の氏神としては現在の古田小学校敷地の一部に八幡宮があって品陀和気命を祭り、また中郷の朝日山に大日社があって大日霊女命と須佐之男命とを祭っていましたが、明治四十年(1907)県の指令により、後の二社を相殿として、新宮神社に合祀されました。

広島市西区古江東町4-1
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「三輪明神広島分祠」

miwamyoujin hiroshima bunshi
  • 神社

《御祭神・大物主大神》三輪明神大神神社は、日本最古の神社として知られており、大神を「おおみわ」と読むところから、大神の中の大神として崇拝されてきました。御祭神、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は日本の国土を拓き、農業・工業・商業すべての産業開発、方除、 治病、造酒、製薬、禁厭、交通、航海、縁結びなど、世の中の幸福を増進する事を計られた人間生活万般の守護神 とされています。当分祠は奈良県桜井市の三輪山御鎮座の三輪明神大神神社より御霊を分祀していただいた神社です。

広島市西区古江上1丁目376−15
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「草津八幡宮」

kusatsu hachimangu
  • 神社
  • 市指定重要有形文化財

《御祭神・ 品陀和気命、息長帯日売命、帯仲彦命》社伝によれば、推古天皇御宇(593-628)宮島の厳島神社とほぼ同じくして、この入江の奥に多紀理姫命を海路の守護神として祭ったのが当神社の創祀。八幡神の奉斎の時期については、諸説が社伝として残り定かではありませんが、鎌倉時代に武蔵国渋谷郷(現、東京都渋谷区)から当地に所領を得て来住した社家始祖(右衛門大夫または右京大夫と伝える)が宇佐八幡宮より勧請し、古くより当地に祀られていた「多紀理の宮」と合祀して八幡宮を創建し、後に力箭八幡宮と称したと言われています。その後、大永四年(1524)に修造。昭和六年、近郷六箇村の氏子により境内地の造成と共に総ての社殿が再建造営されました。相殿神の宗像三女神の内、市寸島姫命と湍津姫命は明治二十五年厳島神社より御分霊を神馬にお乗せして正式に勧請され、素盞嗚神、倉稲魂神、金刀比羅神は明治末期神社統廃合の折、合祀されたものです。再建の度に高所へ遷され、現在では力箭山の中腹に鎮座しています。

広島市西区田方一丁目11-18
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「太光寺」

taikouji

《御本尊・元亀法難阿弥陀如来御尊像、阿弥陀様》1926年現在の広島市中区大手町の原爆ドーム付近に、「原光明」師が「天台宗三井寺派」の「石光寺」を設立し、当山(石光寺)が開山されることになったそうです。2009年4月29日、天台宗総本山「比叡山延暦寺」長﨟の小林隆彰大僧正が太光寺の名誉住職に就任され、これより以後は、当寺を「行者山太光寺」と正式に名称されました。現在、太光寺がある「行者山」は、広島県広島市西区の「田方」の地に位置しています。そして、その行者山の麓に広がる「草津」の地は、隣接する「古江」の地とともに、近世まで深い入り江を形成していて、天然の良港として利用されていたと伝えられています。また、それだけでなく、残存する資料の中から確認される行者山の周辺は、歴史の息吹を大いに感じさせる地でもあります。

広島市西区田方1丁目551−1
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「井口大歳神社」

inokuchi otoshi jinjya
  • 神社

《祭神・大歳神、須佐之男命、少名彦命》神武天皇が、井口に立ち寄られた際に船をつないだ場所を社地として万寿元(1024)年創建したと伝えられています。貞享2(1685)年再建の棟札が残っています。活疱明神とも称し、疱瘡(ほうそう=天然痘の俗称)の守護神として篤く信仰されていました。境内にはこの地方の自然植生(クロガネモチ・アラカシ・ヤブツバキ・ヤブニッケイなどがあり、樹齢480年超える椋の大樹があります)がよく残っています。大正2(1913)年龍の口の胡子神社、小己斐山の小己斐神社、胡面の岩神社を合わせて祀っています。(相殿神):大山祇神、岩長姫命、宇麻志葦茅比古遅命(うましあしかびひこぢのみこと)

広島市西区井口二丁目23-25
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「大原神社」

oohara jinjya
  • 神社

《御祭神・伊邪那岐命、伊邪那美命、火具土神,須佐之男命》1558~1570年、悪病が流行し多くの人が亡くなり、火災により多くの家屋が焼失しました。妙見山(向洋半島南東部)に社を建立して祈願すると、悪病が退散し火災も鎮まったそうです。 その後、妙見山から現在地に遷座。遷座した年月は不詳です。(相殿) 大綿津見神、事代主神、豊玉毘売神、宇賀御魂神、天之常立神、大国主神、奥津日子神、奥津比売神、火具土神となっており、御祭神である国産みの伊邪那岐命、伊邪那美命、を古事記などで調べてみるのも日本の歴史を学ぶ良い機会になると思います。

広島市南区向洋大原町37−1
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「邇保姫神社」

nihohime jinjya
  • 神社
  • 市指定重要文化財

《御祭神・品陀和気命、息長帯日売命、帯仲彦命、爾保都比売神》邇保姫神社はその昔、神功皇后が三韓征伐の帰途にこの海道を通られた際、邪気祓いのため射った白羽の矢が香護山(現在の黄金山)に当たったことから、その矢を神体として祀ったことが始まりとされています。仁和元年(885年)豊前国宇佐八幡宮より分霊を勧請して正八幡宮と称し、江戸時代の文章には、爾保島氏神本浦正八幡宮と記されています。仁保の獅子舞をはじめ、仁保の人々と歴史をともにしてきた地域に縁のある神社であり、関連する奉納品も多数納められていました。原爆投下時には、爆風により社殿が傾いたものの倒壊を免れており、被爆者の救護所として利用されました。2007年に火災によって本殿や拝殿などを焼失したものの、2010年に復興造営されました。

広島市南区西本浦町12-13
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「ハワイ移民資料館
仁保島村移民の歴史」

hawaii iminshiryoukan
nihojimamura imin no rekishi
  • 資料館

旧仁保島村の周辺では、簡単にハワイ移民と縁のある家を見つけることができます。それだけでなく多くのハワイ移民を誕生させた地域です。「おらが村の自慢のものは海外移民と盆踊り」、広島市と合併する直前に発刊された仁保村誌の記述は、移民が他の市町村より突出していたことを如実に示しています。しかし、ハワイと広島の交流は、戦後のハワイ広島県人会が中心となった、広島への復興募金活動を境にして次第に薄くなってきています。「ハワイには日系人が多い」、若い人達ばかりか年配の人たちの中にもその理由がわからない人が増えています。こうした状況を受け、ハワイ移民の歴史を正しく後世に伝えたいとの願いから、移民の歴史資料館は設置されました。ここでは、ハワイが移民を必要とした理由や、広島からの移民が多い理由について知ることができます。

広島市南区仁保3丁目17−6
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「神田神社」

kanda jinjya
  • 神社

《御祭神・仲哀天皇、神功皇后、応神天皇》神田神社は、文亀三年(1503)当時祇園町の武田山にあった銀山城の城主として安芸の地を治めていた武田元繁が、祖国甲斐の国、今の山梨県から城の守護神として安芸郡牛田村、今の東区スポーツセンターあたりに奉遷したのが始まりだと言われています。その後武田氏は毛利元就に滅ぼされ社殿は荒廃しましたが、元就の孫の毛利輝元が広島城を築城して入城すると、輝元は神田神社の荒廃を憂いて天正十九年(1591)武田氏の遺臣池田宮内を神主として社殿を再建し、広島城の守護神として祭ったそうです。毛利氏に替わって福島正則が城主となると、福島正則は各地の社寺の領地を悉く没収し神社は再び荒廃し始め、その荒廃ぶりを嘆いた地元の村民等の篤い願いを福島正則はやっと聞き入れ、神社の護持を村民等にまかせるようになり、神田神社は牛田村の氏神様として牛田地区の村民等によって祭られるようになりました。

広島市南区宇品御幸四丁目1-15
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「広島大学医学部医学資料館」

hiroshima daigaku igakubu igaku shiryoukan
  • 資料館
  • 国の重要文化財

《身幹儀(星野木骨)》日露戦争で派兵基地となった広島は、その後も兵員や軍需物資の補給をおこなう基地としての整備が進められていきました。広島陸軍兵器支廠に昇格したことで兵器庫が増設され、1904年(明治37年)から第1〜10兵器庫が、1920年(大正9年)から第11〜17兵器庫が、2階建てのレンガ造で建てられました。爆心地から2.75キロメートルで被爆。比治山の陰だったこともあり、屋根や窓に被害を生じたくらいで建物に大きな影響はなく、臨時救護所として多くの被爆者の救護が行われました。現在、兵器庫はすべて取り壊されていますが、医学資料館を新築する際に、最後の1棟だった11号館で使用されていたレンガを一部利用。外観は当時のままを復元しています。広島の歴史の奥深さや建築、世界と日本の医学の進化など様々な角度から多くのことを学べる場所となっています。

広島市南区霞1丁目2−3
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「比治山貝塚」

hijiyama kaizuka
  • 史跡

比治山の南麓に位置する縄文時代(約12,000~2,300年前)の貝塚。当時は太田川の三角州が発達しておらず,貝塚は広島湾奥の島の汀線付近にあったと思われます。戦時中の軍の工事によりその主要部分が破壊されましたが,昭和23・24年(1948・1949)の調査では,地表下30cmに厚さ約1.5mの貝塚を確認。貝層は,上・下の2層に分かれ,上層から縄文時代晩期前半(約2,500年前)の灰褐色磨研土器,下層から縄文や同心円状の磨消縄文をめぐらす縄文時代後期後半(約3,000年前)の土器などが出土しています。石器としては,石鏃(せきぞく),石匙(せきひ),漁網に使用される石錐(せきすい),自然遺物としては,シカの骨,タイの骨,ハマグリ,カキ,アサリ,シオフキなどの貝類が出土しており,狩猟や漁撈を中心とした生活が明らかになりました。何万年前の営みを想像する事で新たな気づきや生きるヒントが見つかるかもしれません。

広島市南区比治山公園6−6
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「多聞院」

tamon in
  • 市指定重要文化財

《御本尊・毘沙門天王、絹本著色両界曼荼羅》真言宗の寺院です 。詳しくは金剛吉祥如意宝珠山光明遍照寺多聞天王院と称します。始めは、高倉上皇の夢枕に立たれた縁起から、安芸郡音戸幡見(波多見)に堂が造られ、約370年後天文年中に毛利元就によって高田郡吉田に移され、毛利輝元の広島築城に伴って新庄村に移築遷座されました。後の福島正則は慶長9年(1604年)にこの比治山の地を選んで本堂を建て遷座して今に至っています。正則は当山初代俊恵に金剛界胎蔵部の双幅の両界曼荼羅と三条小鍛冶宗近の宝剣一振を寄進し、お祝の文書も残っています。両界曼荼羅は昭和53年に広島市指定の重要有形文化財に指定。境内には持佛堂、毘沙門天本堂、被爆した鐘樓、頼家之墓(県の史跡)、植田艮背之墓(県の史跡)等があります。

広島市南区比治山町7−10
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「稲生神社」

Inari jinjya
  • 神社

《御祭神・豊受大神、大国主大神、稲生武太夫公霊神》元和5年(1619年)創建と言われ、商売繁盛の稲生社で信仰されています。享保18年の神社周辺の大火で神社と大工・忠七の家のみ焼失を免れたことから火災除けの守護ともされています。のちに「稲生実録物語」「稲生物怪録」で知られる稲生武太夫が、御祭神に祀られてからは、武太夫の人格と「魔除の小槌」の縁起により魔除け・厄除け・強運(負けない)の御守護になっています。「稲生物怪録」は江戸時代中期の広島県三次を舞台とした、稲生平太郎と人間をおどかしにやってきた魔王たちとの不思議な体験を綴った物語です。物語には多くの怪しげな妖怪が現れるだけではなく、現在も存在する場所や、主人公の平太郎をはじめ当時の三次に実在した人物が登場します。こちらを調べてみるのも面白いですよ。

広島市南区稲荷町2−12
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「碇神社」

ikari jinjya
  • 神社

《御祭神・大綿津見神》昔の中区白島町は「箱島」という小さな島であったと伝えられています。神社の前を行き来した船が、神社の近くに碇を下ろしたことが名前の由来となっています。碇神社は広島の城下町(旧市街地)で最も古い氏神様で、前身の「箱島大明神」は奈良時代に遡り、楽音寺(三原市)の神名帳にその名が記されていたほどの由緒ある神社でした。「大綿津見神(おおわたつのかみ)」と呼ばれる海上交通の安全や産業の繁栄を司る神様が御祭神です。宮島の厳島神社とは、偶然にも社紋が同じという不思議なご縁もあります。この場所一体が昔は海だったという事を想像するだけでも貴重な体験です。

広島市中区白島九軒町12-20
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「禿翁寺」

tokuouji
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・阿弥陀三尊立像》禿翁寺は浄土宗の寺院で、慶長年間に紀州和歌山光恩寺の開山、信誉禿翁上人により開基。その後、元和5年(1619年)紀州和歌山から浅野長晟に従って広島入りした弟子の僧、寂誉存的によって紀州の禿翁寺が移されました。起立は寛永年間と知新集にあります。本尊の木造阿弥陀三尊像は、安阿弥作と伝わる阿弥陀三尊立像は開山当時からのもので、室町期の作として広島市の重要文化財に指定されています。一般の方の拝観はできません。原爆の爆心から1.5kmにある当寺の境内には、被爆により5体となった等身大に近い石の六地蔵尊、同じく被爆した紅梅やかえで等の被爆樹木もあり、貴重な歴史の流れを感じます。

広島市中区東白島町8-8 
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「妙風寺」

myoufuji

《御本尊・久遠実成釈迦如来》妙風寺は日蓮宗の寺院で、蓮の花がとても美しいおすすめのパワースポットです。この寺はもと紀州(和歌山県)名艸郡にあって大乗院と言われ、天正十四年の頃、妙蔵院日経上人が関東弘通の折、鬼子母尊神を感得し一宇のお堂を建立し開創せられたもので浅野藩士達のお寺でありました。第二祖の本行院日意上人の時代、彼は能書家であり、また茶道にも達しておられたので、文人墨客と云われるような人々との交際も多く、その中でも加藤風庵公や上田宗固翁などは代表的な人々でありました。とても芸術溢れた場所でもあります。当時の芸術家が集まる貴重な場所の一つでした。

広島市中区東白島町1−18
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「宝勝院」

houshouin

《御本尊・阿弥陀如来》天正年間、毛利輝元公広島築城の際、広島城の鬼門の守護として慶長三年(一五九八年)、古くから箱島(白島の古名)に祀ってあった掟明神社を造営した寺院です。その責任者、築城奉行二宮太郎右衛門就辰(輝元公の叔父)の子孫、増仙法印は、開基(寺院創立の僧)として伽藍を建立させ、社領五百石を支給されました。その後明治初年神仏分離の際に、碇神社と境内を分離縮小され、昭和二十年八月六日、原子爆弾に被爆し諸堂ごと焼失しました。本尊阿弥陀如来は桃山時代の作であり鎮守には、若宮稲荷と当護稲荷という二つの稲荷大明神を祀っています。碇神社にとても近く、境内には昭和五十一年に水子地蔵尊が建立され霊験あらたかなお地蔵さんとして参拝者が多く訪れる場所です。

広島市中区白島九軒町12−4
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「広島城跡」

hiroshimajyo
  • 史跡
  • 市指定重要有形文化財

《築城主・毛利輝元》天正16年(1588)、毛利輝元は初めて京都へ向かい、秀吉に謁見しました。その時に大坂城や京都市上京区の西陣にある聚楽第を訪れ、その豪壮さや町の繁栄を目の当たりにした輝元は、郡山城がすでに時代遅れであることを悟り、新しい城づくりを決意したと言われています。そして中国地方一帯を治めることができる城と城下町建設のために城地として選んだのが祖父毛利元就が重視していた広島湾頭だったのです。翌天正17年(1589)、太田川デルタ周辺の山々から城地を見立て、築城を開始しました。当時、「五箇」と呼ばれていたこの地が「広島」と名付けられたのはこの時であったとも言われています。広島城の経歴を改めて学ぶ事で、広島の歴史がより面白くなります。その他、敷地内に市の「重要有形文化財」が3箇所あります。

広島市中区基町21−21
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「広島護国神社」

hiroshima gokoku jinjya
  • 神社

《戦没されたご英霊およそ九万二千余柱》明治元年12月、明治維新の戊辰の役において陣没された高間省三命以下七十八柱を、二葉の里に新しく造営された「水草霊社」に奉祀されたのが創建です。以来、大東亜戦争に至るまでの幾多の事変戦争において、戦没されたご英霊およそ九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の神霊をお祀りしています.同14年に広島護国神社と改称されましたが、昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し、御社殿すべてを焼失しました。その後同地に小祠を設けて祭祀を続けてきましたが、広島市の復興に伴い移転を余儀なくされたため、復興奉賛会が結成され県民より淨財を募り昭和31年秋現在の広島城跡に新社殿が造営され、待望の復興を遂げました。広島城の近くにあり、中心街に位置します。

広島市中区基町21
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「縮景園」

shukkeien
  • 名勝

《命・浅野長晟》歴代藩主に愛好された名園 元和5年(1619年)に福島正則が信濃国川中島(かわなかじま)に移封された後、紀州和歌山から浅野長晟が新しい広島藩主として入国しました。この縮景園は、その翌年、浅野家の別邸として造られたもので、「泉邸(せんてい)」の名でも親しまれています。長晟の命を受けて築庭にあたったのは、当時の家老で、茶人としても名高い上田宗箇(うえだそうこ)でした。彼は、中国浙江省(せっこうしょう)の西湖(せいこ)の風景をまねて庭を造り、そこから「縮景園」の名が付けられたと言います。庭園の歴史、日本人の美意識の再確認にも繋がる場所の一つと言えます。

広島市中区上幟町2−11
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「橋本町厳島神社」

hashimoto itsukushima jinjya
  • 神社

《御祭神・市杵嶋姫令、田心姫令、湍津姫命》被爆橋梁・京橋のふもとに鎮座する橋本町厳島神社。宮島厳島神社と同じ御祭神である宗像三女神が祀られています。とても小さな神社ですが、被爆鳥居や被爆灯籠があり、歴史を感じる神社です。例年、十七夜祭と言って7月17日に宮島管弦祭に呼応した祭礼が行われます。宮島厳島神社と河と舟でつながる歴史を紐解き、広島の海上交通についての歴史を調べるのもおすすめです。

広島市中区橋本町8−4
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「カトリック幟町教会
世界平和記念聖堂」

noborimachi kyoukai
sekai heiwa kinen seido
  • 教会
  • 国の重要文化財

《設計・村野藤吾》世界で最初に被爆した広島の地に平和のシンボルとして献堂されたカトリック教会です。聖堂の建設は、1945年8月6日の原子爆弾の惨禍に身をもって体験された、当時の広島カトリック幟町教会主任司祭フーゴー・ラッサール神父が、原子爆弾の犠牲となられた人々の追憶と慰霊のため、また全世界の友情と平和のシンボルとして発案されました。これに応えてカトリック信者を始め、世界各地の真に恒久平和を願う人々の発願と多大な寄付により、1950年8月6日に着工され、5年の歳月を重ねて1954年8月6日に完成、献堂され「世界平和記念聖堂」と命名されました。設計は当時のデザイン設計の第一人者であった村野藤吾氏が担当し、聖堂入口の7つの秘跡を表した彫刻は円鍔勝三氏の作品です。建築家村野藤吾氏の戦後における代表的建造物として2006年7月に国指定重要文化財となりました。

広島市中区幟町4−42
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「原爆ドーム
旧広島県産業奨励館」

genbakudomu
kyu hiroshimaken sangyou shoureikan
  • 史跡
  • 世界遺産

《平成8年世界遺産登録》原爆ドームは,昭和20年(1945)まで広島県産業奨励館と呼ばれていました。大正3年(1914)細工町の元安橋の東河畔に,広島県物産陳列館として建築され,大正4年(1915)に開館しました。館の業務は,県内の物産販路開拓や生産品の陳列及び委託販売等でした。しかし,戦争が激しくなると,産業奨励館の展示も徐々に縮小され,昭和19年(1944)3月31日には館の業務は廃止されたました。戦局も悪化した昭和20年(1945)の8月6日,原子爆弾が産業奨励館の東方約150m,高度約580m前後の地点で爆発し、産業奨励館も爆風と熱線を浴びて大破,全焼したものの,建物本体は奇跡的に倒壊を免れました。当時,この建物内にいた約30名の職員は全員が亡くなっています。戦後,原爆ドームは原爆の惨禍とともに平和を訴えるシンボルとして保存され,昭和42年(1967)と平成元年(1989)には保存修理が行われています。平成8年(1996)には,厳島神社とともに世界遺産に登録されました。

広島市中区大手1−10
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「竹屋地蔵尊」

takeya jizo
  • 菩薩像

《竹屋地蔵尊》中区富士見町の平和大通り緑地帯にお祀りされている「竹屋地蔵尊」です。お堂の左側に宇品道の道標が再建されています。1945(昭和20)年8月6日、原爆が投下されるまでは竹屋橋近くに鎮座されていたそうですが、現在はここ富士見町の平和大通り緑地帯に移され鎮座されています。夜泣き地蔵とも呼ばれており、子供の夜泣きにご利益があると言われております。身近にある歴史ある場所から様々な発見をしてみてください。

広島市中区富士町
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「白神社」

shirakamisha
  • 神社
  • 史跡
  • 天然記念物

《御祭神・菊理姫神、伊邪那伎神、伊邪那美神》元々この一帯は海で、当社の地点には海面から突き出た岩礁があったそうです。その為、この岩礁に衝突する船が後を絶たないため、当時の船人が岩礁上に海路安全を願って、白い紙をたてたと言われています。白紙(しらかみ)を守り神の象徴として祠を建てて祀るようになったのがこちらの白神社の由縁です。そして、この白紙にちなみ「白神(しらかみ)」と呼び、住民の信仰を集めたそうです。天正19年(1591年)9月には、広島城を築いた毛利輝元により新しい社殿が建立。広島城下の総産土神(そううぶすながみ)とし最盛期には近隣の旧国泰寺に連なる広い境内を持つ神社に発展。毛利輝元公が男子(秀就)の初宮詣に参拝されたと記述が残っております。市内の中心地に位置し、オフィスや繁華街が立ち並ぶ中、地元の方々が多く参拝されています。※ 相殿・天御中主命、高皇産巣霊神、神皇産霊神、天照皇大神/白神社の岩礁。

広島市中区中町7−24
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「旧国泰寺愛宕池」

kyu kokutaiji atagoike
  • 史跡

《創建・恵瓊》旧国泰寺の境内。この池は、ここに国泰寺の鎮守愛宕社があったことから愛宕池と呼ばれるようになったものです。愛宕社は国泰寺開基当時(1601年)から存在しており、この池は当時のおもかげを残しているもので、城下町形成初期の遺構として貴重なものです。また、この池は、白神社の境内に連なる岩礁の一部を利用して池としたもので、城下町形成初期の頃の海岸線は、この付近であったと推定され、三角州形成の一つの里程標としても意味深いものです。なお、池石の一部に彫られた龍は、満潮時には遊泳したという伝説を伝えています。国泰寺は、毛利氏の時代に、僧恵瓊(えけい)が安国寺として創建し、福島氏の時代に改めて国泰寺として開基されました。(1601年)その後、浅野氏が藩主として入国し、その菩提寺として歴代藩主の尊敬をうけました。白神社の近くに位置して、この辺一体が昔どのような場所だったか一度立ち止って想像してみるのもおすすめです。

広島市中区中町7
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「頼山陽史跡資料館」

raisanyou shiseki shiryoukan
  • 史跡
  • 資料館

《頼山陽居室》頼山陽(らい・さんよう 1780~1832)江戸時代後期の日本を代表する漢学者で、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍しました。歴史の分野では、没後に出版された『日本外史』がベストセラーとなり、幕末から明治初期の人々に大きな影響を与えました。文学の分野では、数多くの詩文を作り、川中島の合戦を題材にした「鞭声粛々」の詩や、天草洋の風景を詠んだ「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などは幅広く愛誦されています。また、美術の分野では、能書家として著名で、絵画についても「耶馬溪図巻」などの優れた水墨画をのこしています。日本の芸術世界に触れるいい機会にしてみてください。

広島市中区袋町5−15
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「旧日本銀行広島支店」

kyu nihonginko hiroshimashiten
  • 史跡
  • 市指定重要有形文化財

《設計・長野宇平治、日銀臨時建築部》旧広島支店の建物は、古典様式の優れた外観を有する広島の昭和初期を代表する希少な歴史的建築物であり、また、1945年8月6日に、爆心地からわずか380mという近距離で被爆しながらも、その堅牢性から建設当時の姿を現在もほぼ残しています。被爆時においては、1階と2階はよろい戸を閉じていたため、内部の大破を免れましたが、3階は開けていたため全焼しました。また、被爆当日は、食堂などが負傷者の収容所となりました。そして、翌々日の8日には、早くも銀行の支払い業務が開始されるとともに、被災して営業が不可能となった市内金融機関の仮営業所が設置されたという、金融面から広島の復興を支えた史実を伝える貴重な被爆建物です。その後、1992年3月に、広島支店が中区基町に移転し、旧広島支店は銀行としての役割を終えましたが、1993年6月に、「旧日本銀行広島支店」として被爆建物台帳に登録され、2000年7月に、広島市の重要有形文化財に指定され、現在一般公開されています。

広島市中区袋町5−21
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「中の棚稲荷大明神」

nakanotana inari daimyoujin
  • 神社

《御祭神・大国主神》魚市場のあった中の棚(現立町)。昔、広島城下に三軒の魚問屋がありました。西魚屋町と京橋町と東魚屋町です。ここはその中間にあっtたので”中ノ棚”と呼ばれ、市中で一番古い歴史を持つ魚市場です。元和五年(1619)浅野長晟が紀州より入府するとき、御肴御用商人「天満屋治兵衛」と「七右エ門」が随行し、東魚屋町に住み、代々魚問屋を業とされ、その後海田屋、周防屋、阿賀屋、吉田屋などの魚問屋が軒を並べた記録があります。中ノ棚稲荷はこの魚市場の守り神です。またここにはカマボコ商も数軒あって商売は繁栄していました。この町の東は八丁堀の水が南に通じて、今の堀川町を南に向かって竹屋川として流れていたもの。また、東魚屋町西寄りの小路は「新小路」と呼ばれていました。”中ノ棚稲荷”はもと餅屋某という者の鎮守であったものと伝えられていますが、今は広くこの辺一帯の商売人の信仰の中心となって栄えています。

広島市中区立町1
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「広島平和記念資料館」

hiroshima heiawakinen siryoukan
  • 資料館
  • 国の重要文化財

《初代館長・長岡省吾》広島平和記念資料館は、原子爆弾による被害の実相を世界中の人々に伝え、ヒロシマの心である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与することを目的に、1955年(昭和30年)に開館しました。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。まちはほとんどが破壊され、多くの人々の生命が奪われました。かろうじて生き残った人も、心と体に大きな痛手を受け、多くの被爆者が今なお苦しんでいます。平和記念資料館は、東館・本館からなり、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示するとともに、広島の被爆前後の歩みや核時代の状況などについて紹介しています。このほか、被爆者による被爆体験講話会などを実施したり、平和学習のための資料の貸出しも行っております。奥深く歴史を学ぶ事が、新たな平和活動につながる機会になればと思います。

広島市中区中島町1−2
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「天満神社」

tenma jinjya
  • 神社

《御祭神・菅原道真大神》天満神社は、毛利輝元卿が広島に城を築き高田郡吉田町から入府(にゅうふ)した時、吉田の天神山(てんじんやま)からこの地に遷(うつ)して奉斎(ほうさい)したのが始まりです。当初この地は、「舟町」と称していましたが、これにより「天神町」と改めました。元和5年(1619年)、太田川の洪水で城の石垣が被害を受けたため、福島氏初代広島藩主・正則は修理を行いましたが、このとき幕府に無断で修理を行ったということで、領地を移されることになったそうです。この年の8月8日、長晟一行は和歌山から広島まで船でやってきました。広島城に入城するまえ、天神町(てんじんまち・今の中区中島町)の天神坊(満松院(まんしょういん))で休憩したといわれています。

広島市中区中島町6
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「廣瀬神社」

hirose jinjya
  • 神社

《御祭神・市杵島比賣命、多岐理比賣命、多岐津比賣命》廣瀬神社のご由緒は天正の時代、この場所に廣瀬弁財天というお社があったのが始まりとされています。その後毛利輝元がこの地に鎮守社として廣瀬市杵島大明神と称して厚い信仰を集めました。明治時代には社格が村社と定められ、境内には樹齢300年以上の大樹や森があり、諸々の社殿がある大きな神社でしたが、昭和20年の原爆によって大きく焼失。 戦後市街地の区画整理の結果、境内の広さは狭くなりましたが、拝殿や本殿が造営され、昭和51年にかけて境内の整備が行われました。広い境内には樹齢300年以上という大樹、杜をなし、 諸々の社殿を連ねた宏大な社だったそうですが、戦後、区画整理の結果、境内は現在のように縮小されたそうです。特に御朱印帳をお持ちの方におすすめの参拝場所です。

広島市中区広瀬町1−19
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「伝福寺(曹洞宗)」

denpukuji
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・文殊菩薩、木造菩薩坐像》伝福寺は材木町(現在、平和記念公園内にある広島国際会議場周辺)に所在していましたが原爆投下により壊滅。昭和26年(1951年)に都市計画で現在地に移転しました。その為、本尊仏を除く古文書等が全て焼失しており、創建年代等は不明ですが、本尊仏は慶長19年(1614年)の造像であり、開創もその頃ではないかといわれています。開山は、幽屋宗玄大和尚(伝福寺二世)が師の広島国泰寺三世・十岫宗智大和尚(?〜1660年)を拝請したものと思われ、開基は育翁養公座元です。伝福寺の本尊仏の膝裏には巻子を巻いた軸が打ちつけてあり、この銘文の中には「もん志ゆ」と墨書で記されています。また、左手に蓮華を持っていることから考えてみると、本仏像は文殊菩薩と考えることができます。

広島市中区昭和9−3
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「旧重谷家土蔵
(伝広島城土蔵)修道高」

kyu shigetanike dozou
  • 市指定重要有形文化財

《広島藩藩校の歴史》2014 年 8 月 28 日に本校敷地内へ移築・復元された旧重谷家土蔵(伝広島城土蔵)が,この度広島市 指定重要有形文化財の指定を受けることとなりました。 旧重谷家土蔵は,広島城内の広島藩学問所にあった可能性が高く,かつ現存する被爆建物として歴史的・文化的に価値があるとされます。また,調査の結果,旧広島城郭内にあった建物としては,他に 多家神社宝蔵(安芸郡府中町)が現存しているのみであり,この土蔵も歴史的・文化的価値が大変高 いことが認められています。
来年 2019 年は浅野長晟が広島城に入城し 400 年を迎える年となります。広島藩の藩校の流れをくむ修道高では,この土蔵を後世へと残すため保存し,教育活動に活かしていきたいと考えていらっしゃるそうです。

広島市中区南千田西町8-1
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「空鞘稲生神社」

sorasaya jinjya
  • 神社

《御祭神・宇迦之御魂神、宇氣母智神、和久産巣日神》「空鞘神社のおこりは大変古く、分祀の年代は明らかであるものの起源ははっきりとしていません。後陽成天皇のご時世、豊臣秀次がまだ関白だった時代、文禄元年1592年、毛利輝元が陰陽両道の守護として広島城廓の築城を告げた冬の時期には、この地に二社がありました。おおきい社を空鞘大明神、小さい社を彦山明神(現在の幸神社)といいます」と、伝えられています。この他の私記等の諸書によれば天文年間(1532~1555)の御創建といわれています。その後隆興の一途をたどり 毛利氏の信仰は深く、かなりの社領を有していました。また「空鞘」の名は、社頭の松の大木に刀の鞘のみが掛って居た事によりその社名となったと伝えられており、昭和40年(1965)の町名改正まで神社周辺は空鞘町と称していました。地元の方々との繋がりも強く、老若男女の多くの層の方々が参拝に訪れています。

広島市中区本川町3丁目3−2
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「天満宮」

tenmangu
  • 神社

《御祭神・菅原道真公》広島天満宮は、火災の多かった当地(小屋新町)が、天明8年(1789)町名を天満町と改めたことから、文政5年(1822)に天満宮を田中屋清左衛門の別家内に勧請、文政10年(1827)当町北側に路を開いて遷座したといいます。天満宮は天満町本通り筋の北側にあり、境内八十三坪九合九勺、祭神は菅原大神で、天明八年の勧請と言われていて、明治四十二年十月八日に罹災し、殿宇が全て焼失。大正元年九月にこれを再建しました。今の殿宇には正殿・祝詞殿・拝殿・鳥居等があります(「廣島市史社寺史」より)。旧山陽道という事もあり、昔ながらの老舗も立ち並び、とても歴史ある場所です。

広島市西区天満町9-7
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「衣羽神社」

eba jinjya
  • 神社

《御祭神・市寸嶋比賣命、多紀理毘賣命、多岐都比賣命》この神社は、天満川と本川の河口に挟まれた中州、江波山公園という小さな山の北東斜面に鎮座しています。
創建年月日は不明確ですが、広島市内随一の由緒正しい古社。安芸の国の国司所祭の官社を収録した古代の神名帳「官社一百八十社」の中に三位衣羽明神と記載されています。明治四年(1871)官の指揮により旧名に復し、衣羽神社と改めました。江波は、かつて広島湾に浮かぶ「江波島」という島で、江波の村社である「衣羽(えば)神社」には約680年前の記録があり、島には約700年前には人が住んでいたという記録が残っています。約400年前毛利輝元によって広島城が築かれると、人の力によって急速に干拓が進み、明治時代には舟入と陸続きに。現在の地形になったのは戦後の埋め立てによるものです。※相殿祭神 大綿津見神・大穴牟遅神・宇迦之御魂神・少名毘古那神・稚産霊神・倉稲魂神・保食神

広島市中区江波南1丁目23−9
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「江波山気象館」

ebayama kishokan
  • 資料館
  • 市指定重要有形文化財

《旧広島地方気象台》全国でも珍しい気象をテーマとした博物館です。施設は広島市が所有し、公益財団法人広島市文化財団が指定管理者となっており、市の施設であるが広島市域の天気予報も発表しています。1934年(昭和9年)竣工した広島地方気象台の本庁舎が、1987年(昭和62年)中区上八丁堀の合同庁舎へ移転したことを機に、気象庁から広島市へ移管し、博物館として開館したもので、建物自体は1945年(昭和20年)広島市への原子爆弾投下にも耐えた現存する被爆建物であり、広島市重要文化財に指定されています。

広島市中区江波南1丁40−1
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「江波山のヤマザクラ」

ebayama yamazakura
  • 天然記念物

《樹齢170年》平成8年に広島市天然記念物に指定され、広島市中区江波にある江波山公園に咲く推定樹齢約160年、高さ約14mの大木です。全国でも類を見ない珍しい品種で、花びらの数はヤマザクラの5枚に対し、5〜13枚の花びらがありびっしりと咲きます。見頃は、3月下旬から4月上旬。江波山気象館横でも若木を植樹された3本のヒロシマエバヤマザクラを観ることができます。「えばやまざくら」とは、広島市中区江波にある江波山公園に咲く山桜の大木です。
昔から地元の人々たちの間では「変わったさくらがある」と言われていましたが、平成6年4月京都の桜守である、第16代佐野藤右衛門(さの とうえもん)氏による鑑定の結果、非常に特異な花で、過去の文献にもなく、全国でも類を見ない珍しい品種であることがわかり、「ヒロシマ エバヤマザクラ」と命名されました。

広島市中区江波二本松2丁目13