ふみだす ひろしま

広島市に点在する計74箇所の神社仏閣・文化遺産を、今回の企画用に撮影
写真家Minoru Obaraの世界観をお楽しみください

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「狐瓜木神社」

kurumegi jinjya
  • 神社

《御祭神 誉田別命 帯仲彦命 息長帯姫命》狐爪木神社はかつて、弥生時代の祭祀形式である磐境(いわさか:石を丸い形に囲んだ祭場)による祭事でした。相殿に祭る志那都比古神、事代主神の二柱を勧請したのは、貞観二年(860年)=平安時代で、故事を紐解くにつれて、昔この一帯は海であったことが実証されるとともに祭神との因縁の深いことがわかります。そしてその頃に、風伯の神を祀り、神社を中心にして集落を生じ発展していったものと思われます。事代主神は大国主神の御子で、漁村、農村、商家に多く祀られています。狐瓜木神社は八幡宮とも呼ばれ八幡神三柱の勧請は、永観二年(984年)。当時、大神の御稜威(ごりょうい)により大陸から文化の移入が盛んであったので、文化神として八幡神は全国的に最も多く祀られている神です。村の鎮守、氏神として崇敬され、文化神として、また武士の守護神として、家内安全、商売繁盛、交通安全、厄除け、安産、開運、受験祈願などのご利益があるといわれています。

広島市東区戸坂くるめ木1丁目226
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「三宅神社」

miyake jinjya
  • 神社

《御祭神・誉田別命、帯仲彦命、息長帯姫命》創建ははっきりしませんが、旧記によれば明徳三年(1392年)南北朝時代に八幡三神を勧請したといわれており、さらに文禄三年(1594年)に再興、天明七年(1787年)に再建、慶応元年(1865年)に現存の拝殿、幣殿、明治三十七年(1904年)に本殿を造営、昭和四十二年に神饌所を新築しました。往時の鎮座地は南参道下の向かい側あたりにあり、いつの世にか現在地へ遷座したそうです。八幡神は当時、大神の御稜威により大陸からの文化の移入が盛んだったので、文化神として全国的に崇敬されています。 当神社の例大祭の前夜祭には地元の十二神祇神楽を奉納し、花火を競います。戸坂全域は狐瓜木神社(総氏神様)の氏子であり、狐瓜木神社の兼務社としてお守りしています。

広島市東区戸坂数甲二丁目2518
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「琴比羅神社」

kotohira jinjya
  • 神社

《御祭神・大汝神、大国主神、少彦之神》戸坂東山のふもとの滝にあるので、「瀧の宮」ともいわれており、滝口の磐境(いわさか)、すなわち巨岩の屏風岩と釣鐘岩の間を御神霊と奉っています。創立の年代ははっきりしていませんが、万延年中(1860年代)に著述した『瀧の金比羅宮社記』によると、往古の勧請で、建武年中(1334-5年)に足利尊氏が社頭に額面を寄進したと記されています。昔は滝の近くに温泉が湧き出していたといわれ、湯壷(ゆつぼ)、竈石(かまいし)という古名が今も伝承されています。この滝の浸水で湯浴みをすると病がよく治ると、御恩頼をいただくものが多かったそうです。滝の右上の釣鐘岩(岩上に三百歳の老松がある)の下に榊の連理木(二本の木の枝が連なっている)がありましたが、昭和四十年ごろ枯れたそうです。この木の生ずる所は自然に富み、大いに繁盛する瑞祥のしるしといわれていました。医薬の術を世に伝え世人の病患を救療擁護される御神徳があり、宿病が平癒するご利益があるとされ、広く信仰されていたようです。

広島市東区戸坂町687番地
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「長尾古墳群」

nagao kofungun
  • 史跡

長尾古墳群には、現在3基の古墳が残っており、その造営時期は、古墳から出土した土器類から4世紀後半から5世紀代と推定されています。古墳とは土を盛り上げた高塚状の墓のことで、3世紀後半から7世紀頃の古墳時代に、全国各地の豪族によって多数造られたました。前方後円墳は、規模や副葬品などから、それぞれの地域を治めた有力な豪族だけが造ることができた特別な形の古墳だと考えられています。長尾古墳群の第1号古墳は、広島地域でも最大級の前方後円墳であるとともに、現在確認されている太田川下流域の前方後円墳の中で南端に位置しています。これらのことから、長尾古墳群は、古墳時代の前半期のおける太田川下流域を治める有力豪族の存在やその系譜等、当時の広島地域の状況を解明する上で重要な貴跡として史跡の指定を受けたものです。(平成17年3月 広島市教育委員会設置の現地掲示板)

広島市東区戸坂長尾台1
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「皇子神社
天水の名水」

oujijinjya
amazuno meisui
  • 神社
  • 献水

『天の名水』広島市東区牛田新町にあり、原爆の8月6日平和記念式典前に行われる原爆死没者に捧げる献水の内の1カ所です。この献水の行事が取り入れられたのは、昭和49年(1974年)からです。当時の山田節男広島市長が、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で行われていた献水に感銘を受け、水を求めながら亡くなられた原爆犠牲者の方々のために水を供えることは意義深いとして、広島市でも実施することになりました。以来、毎年、献水行事を行っています。当初は、市内10か所の水が選ばれていましたが、その後、地域と深い関わりや由来のある水が加えられ、令和2年には市内17か所から採水されています。各所から集められた清水は、地元住民の代表の方々によって原爆死没者慰霊碑前に置かれた一対の水桶に注ぎ入れられ、慰霊碑に供えられます。この清水は式典終了後、慰霊碑を囲む「平和の池」に注がれています。歴史を学ぶ一つの機会にして頂けたらと思います。

広島市東区牛田新町4丁目7-35
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「自在坂神社」

jizaizaka jinjya
  • 神社

《御祭神・品陀和氣命、稲生神、宇迦之御魂神》古来よりこの地方に鎮座し、猿宮とも称されます。昔は安國寺不動院の守護神として祀られていました。元々八幡社と称していましたが明治3年(1870年)に自在坂神社と改称され、明治5年(1872年)村社に列せられこの地の産土神として現在に至ります。明治22年以降、神田神社の氏子の勧請により、大正初期に神田神社は自在坂神社に合祀したそうです。御祭神である 品陀和氣命は応神天皇、稲生神は稲を象徴する穀霊神、宇迦之御魂神は名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神です。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられています。御祭神を調べる事も多くの学びがあると思います。

広島市東区牛田新町三丁目3-1
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「安国寺不動院」

ankokuji fudouin
  • 国宝
  • 県指定重要文化財
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・聖不動明王/主尊 ・薬師如来》江戸時代の「新山雑記」では、 当寺の開基は僧空窓であると伝えられています。 又、「当山記」には行基が開基とも伝えられていますが、創建年代や由緒については判然としていません。 只、金堂内に安置されている本尊薬師如来像が定朝様式であることから、平安時代には創建されていたと推察されています。金堂(国宝)天井の墨書から天文9年(1540年)の建築と判明しました。不動院は密教寺院ですが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床の一室とする点、中央を鏡天井とし、その周囲にぎっしりと組物が並ぶ天井の構成などに、禅宗仏殿特有の形式が見られます。尚、天井高は8.6メートルに達します。この堂は、もとは山口市の凌雲寺にあり、それを天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊が移築したものです。不動院金堂は広島市唯一の国宝。不動院鐘楼、不動院楼門、木造薬師如来像、木造仁王立像(二躯)、銅製梵鐘、紙本墨書不動院文書は県の計6箇所は県の重要文化財。 塑造無準禅師像、木造聖一国師像、絹本著色両界曼荼羅の3箇所は、市の重要有形文化財となっています。

広島市東区牛田新町3丁目4−9
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「男崎神社」

ozakij injya
  • 神社

《御祭神・帯仲彦命、品陀和気命、息長帯日売命》八幡社とは元々は、八幡神(ヤワタノカミ・ヤハタノカミ)と称し、海神として航海民である宇佐氏が崇敬した地方神のひとつでした。その後、幾度かのご神託を通じて、自らを品陀和気命や応神天皇の化身として名乗ったことから、複数の神格を併せ持つようになりました。とりわけ応神天皇は第15代天皇として実在性が濃厚な最古の天皇とも言われており、八幡神の存在は、宇佐の土着神的な神と歴代天皇という皇祖が結びついた極めて珍しい性質を持っています。男崎神社は創建年は不詳で京都・石清水八幡宮(男山八幡宮)から分霊を勧請した神社となります。その先に被爆建物の覚法寺、被爆建物の(矢賀)熊野神社があり、また奥深い歴史を感じてみてください。

広島市東区矢賀三丁目10-1
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「中山稲生神社」

nakayama inari jinjya
  • 神社

《御祭神・土産之大神、大宮能売神、宇迦之御魂神》広島市東区中山にある稲生神社は、この地域の氏神社です。数年前に焼失してしまった本殿の復興にあたり、再建の取り組みが行われており、本殿は、純木造で三間社流造で銅板葺です。この度の設計では、室町時代前期の意匠を採用し、年代復元考証しました。若葉がシンプルながらも元気に生い茂る手挟(たばさみ)、内部彫刻にほぼ左右対称の稲穂を配した蟇股(かえるまた)、広島地域に特有の蓑(みの)を長く垂らした蓑束(みのづか)などを採用して設計されています。妻面の虹梁(こうりょう)の上に載った大きな板蟇股も、シンプルながらも時代が表れる見所の一つ。これらは、広島大学文学部三浦研究室と協力して行っているそうです。作り手の方々の思いを知り、参拝されると、また違った風景に見えるかもしれません。

広島市東区中山東1丁目7-30
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「清水谷神社」

shimizudani jinjya
  • 神社

《御祭神・帯中津日子命、品陀和気命、息長帯日売命、タカオカミ神、別雷神》清水谷神社の由緒は、神功皇后にまつわる故事に由来します。昔、神功皇后が九州に向かわれた際、当村金碇に船を留め、現在の当村上の白地岩にて3日3夜滞在され、清水にて洗米をしたそうです。その後帰途も立ち寄られた際に、夢枕に白髭の老人現れ、この清水は諸病を治し、飲めば長寿を保つであろうとの御神託を得られました。この由緒をもって、この地に社を建立し、京都石清水八幡宮より御祭神を勧請しました。弘仁14年(823年)春に干ばつが発生した際には、農民達が社に挙がって立願し雨乞いの祈祷をしたところ、たちまち降雨となり、人々はこの上なく歓喜したと伝えられています。弘安4年(1281年)8月、永町城主温品左衛門尉が社殿を再建し、永禄7年(1564年)熊谷九郎少輔平広実が本殿を建立、その後元禄9年(1696年)拝殿造営、寛政12年(1800年)本殿を再建しています。相殿神(同じ社に祀られている他の神)として『市杵島比売命』『イザナミ尊』『奥津日子神』『奥津比売神』『大田命』『天照大神』『火之迦具土神』『大山津見神』『事代主神』『大年神』『大地主神』『國之常立神』『猿田彦命』『少名彦命』『大穴牟遅神』『彌都波能売神』『赤根龍神』が祀られています。

広島市東区温品八丁目13-2
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「畳谷弥生遺跡群」

tatamidani yayoi isekigun
  • 史跡

広島県は、温暖な瀬戸内海地域と標高1000mを超える山が連なる寒冷な山間部があり、多様な自然の姿をもちます。 人々は、その自然の中で古くから生活し、さまざまな活動を行ってきました。その活動の痕跡が土地に刻まれたものを、我々は遺跡と呼んでいます。 県内には17,321箇所の遺跡が確認されています(H17年度集計)が、この数は全国でも6番目の多さとなっています。この畳谷弥生遺跡群は、温品川左岸の北から南にのびる標高100m前後の丘陵尾根上に位置し、弥生時代終末から古墳時代初頭(3世紀)にかけてのもので、尾根の東部、中央、西部の3群から成り立ちます。各群には住居、貝塚、墳墓などがあり、それぞれ完結した生活単位を構成しています。現在、県立安芸高校の敷地内に県史跡として保存されていて無断で行くことはできませんが、お近くを通るタイミングで遠くからでも古代の営みを想像し、色々と調べてみると新たな発見があるかもしれません。

広島市東区温品町
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「馬木八幡神社の社叢」

umakihachimanjinjya no shasou
  • 神社
  • 天然記念物

馬木八幡神社の社叢は、シイを主とする常緑広葉樹林で、コナラ、アベマキ、コシアブラなどの落葉樹もいくらか混生していますが、この地方の暖帯極相林の原形をほぼ保っています。同社叢に多くみられるシイモチは、中国地方西部及び九州に分布する常緑高木で広島市から山口県下の島嶼や沿岸部のシイ林に普通に見られるものの、広島市付近及びそれより北の地域では極めて珍しいです。また、林床にジュズネノキ(常緑小低木)が多いものもあまり例がなく注目に値します。馬木八幡神社の御祭神は神武天皇の母、神功皇后、応神天皇であり、文明年中(1469~1487年)に創祀と伝えられています。

広島市東区馬木5丁目1370番地
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「木の宗山銅鐸銅剣出土地」

kinosouyama douhoko douken shutusdochi
  • 史跡

遺跡は木の宗山の中腹200mの地点に所在しています。現地は狐が城えぼし岩(高さ2m)の下手わずか一坪ほどの平地で、その前面は東にむかって急傾斜になっています。明治24年(1891)に立石の前に横たわる平石の下から、銅鐸1、銅剣1、銅戈(どうか)1が出土しました。銅鐸は高さ19.0cmで、邪視文とよばれる特異な文様をもち、古式の銅鐸とされています。銅剣は長さ39.7cm、銅戈は長さ29.5cmでいずれも実用の武器から退化した型式です。これら弥生時代(紀元前3世紀~3世紀)の青銅器は、山腹の大立石の下から発見されたというその出土状態と、銅鐸の出土地としては西端にあり、しかも銅剣・銅戈などとともに出土する点などに特色があり、古くから研究者の注目を浴びています。

広島市東区福田町
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「早稲田神社神社」

waseda jinjya
  • 神社

《御祭神・足仲彦命、品陀和気命、息長帯日売命》言い伝えによると、『武田氏不動院の向いの武田山山上に安芸の国の守護職の武田氏が居城銀山城を建てられたが、その居城より展望すれば牛田のあたりは方位が鬼門にあたる処から、平安を祈って源氏方の守護神である八幡神を祀り、見立山に「神田神社」、早稲田山に「早稲田神社」を建立した』と伝えられています。特に武道の神として崇敬され、武田氏以来、毛利氏の崇敬厚く、又、浅野氏の入国以来、維新に到るまで家老が代参し、供貢を奉献していました。その後の明治四十二年には、神饌幣帛料の供進の指定社に列しています。旧社殿は古くは浅野藩三代綱長公により本殿が改築され、大正四年天皇御即位の際に、御大典記念事業として改築されました。原爆により半壊しましたが、戦後の混乱期にもかかわらず直ちに復旧されました。昭和三十年、失火により不幸にして消失したものの、直ちに再建奉讃会が結成され、昭和三十五年、現社殿が竣工、四百五十年祭と併せ、奉祝祭が町民挙げての喜びの中三日間にわたり盛大に執行されました。その後、平成二年ご大典記念事業として社殿、資料館の改築、参道の補修等、数次の整備を行いつつ現在に至っています。

広島市東区牛田早稲田2丁目7-38
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「牛田の弥生文化時代の墳墓」

ushita no yayoibunkajidai no funbo
  • 史跡

太田川河口の三角州をのぞむ早稲田山(標高約50m)の東斜面に位置しています。昭和32年(1957)、早稲田神社の再建工事の際に発見された弥生時代中期後半(約2,000年前)の土擴墓(どこうぼ)です。土擴は上縁の直径1.5m、深さ1.5mで、底には20~30cm大の石がすり鉢状におかれていました。土壙の底から70~80cm上部から、頭蓋骨、下顎骨(熟年男性)の一部が検出されました。円筒形の土壙のなかに、座位屈葬の形で埋葬したものと推定される珍しい例です。土壙の上面には、ハマグリ・カキなどを中心とする小貝層があり、弥生時代中期後半の土器片や石鏃(せきぞく)が出土しました。なお、西側傾斜面には、縄文時代早期(約9,000~6,000年前)の遺物包含層が分布し、押型文土器や石鏃などが多数採集されています。

広島市東区牛田早稲田2丁目7
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「安楽寺」

anraku ji
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊、阿弥陀如来、薬師如来》安楽寺は、1533年(天文2年)、現在の場所(東区牛田本町)に建てられました。1758年(宝歴8年)の広島城下の大火で一度焼失しましたが、1788年(天明8年)、本堂が再建されています。爆心地から2.19キロメートルで被爆。本堂や山門は骨組みだけとなり、庫裡も倒壊してしまいました。同寺の木造如意輪観音菩薩坐像(もくぞうにょいりんかんのんぼざつざぞう)は、広島市の重要有形文化財に指定されています。この場所には大きなイチョウの木があり、このイチョウは樹齢350年で原爆の被害にもあったものです。この辺りは石造品などにも被爆跡が生々しく残っており、原爆の歴史を物語っています。

広島市東区牛田本町1丁目5−29
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「饒津神社」

nigitsu jinjya
  • 神社
  • 市指定重要有形文化財

《浅野長政命、浅野末津姫命、浅野幸長命浅野長晟命、浅野長勲命》宝永3年(1706年)綱長公(浅野家第6代・芸州浅野家藩主第4代)の時に、広島城の艮(うしとら/東北鬼門)の方位に当る明星院客殿西方に長政公の位牌堂を建立しました。さらに長政公200回御忌に当る文化7年(1810年)に斎賢(なりかた)公(浅野家第10代)、前藩主重晟(しげあきら)公(浅野家9代)と共に新たに壮麗な位牌堂を建立しました。この位牌堂が饒津神社の発端にあたるものであり、この時奉納された文化年間の燈篭や大石水盤等は後に饒津神社創立と共に境内に移されて現存しています。 長政公を神として奉祀することは重晟公以来内慮がありましたが、天保6年(1835年)11月斎粛(なりたか)公(浅野家11代)が祖先追孝のため社殿を現在地(明星院西方)に造営、二葉山御社と称しました。二葉山の名は饒津神社創祀の際に金葉集・摂政左大臣藤原忠通卿の歌「いかばかり 神もうれしと 三笠山 二葉の松の 千代のけしきを」 新続古今集・後徳大寺左大臣の歌「住吉の 松は昔の 二葉より 久しき事の ためしにぞひく」より藩執政関蔵人らによって命名されたものです。これより饒津神社東方の明星院山であった背後の山は二葉山と呼ばれるようになりました。御神号は京都・吉田良長に草案を依頼し、長懋(ながとし)公(斎粛公の叔父)により「饒津大明神」と定められました。

広島市東区二葉の里二丁目6-34
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「東照宮」

toushou gu
  • 神社
  • 市指定重要有形文化財

《御祭神・徳川家康公、東照宮唐門及び翼廊》広島東照宮は徳川家康公を御祭神にお祀りした神社です。家康公薨去(こうきょ)後33年忌に当る慶安元年(1648年)、当時の広島藩主浅野光晟(みつあきら)公によって、広島城の鬼門(北東)の方向に当たる二葉山の山麓に造営されました。光晟公の生母は、家康公の第三女、振姫(ふりひめ)であったことから、祖父家康公の御遺徳を敬慕すると共に、城下町の平和を願って神霊を祀りました。歴代藩主、社領三百石を付し、広島周辺の崇敬を集め、家康公薨去後50年以後は、五十年毎に盛大な祭典が行われました。 社殿は「二葉山山麓に位置し、観望の美しさは毛利氏が広島に築城して以来一番だ」と云われていましたが、原爆(爆心地から約2,200m)の熱風により、桧皮葺本殿、中門、瑞垣、拝殿は焼失。 現在の社殿は、昭和40年4月、家康公薨去後350年祭を記念して再建されました。東照宮唐門及び翼廊、東照宮手水舎、東照宮本地堂、東照宮御供所(附)脇門、東照宮神輿及び舎利塔、木造獅子頭の計6箇所が市の重要有形文化遺産。

広島市東区二葉の里二丁目1-18
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「明星院」

myoujyou in
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・千手観世音菩薩、絹本著色釈迦十六善神像》明星院は、広島市の東北に位置し、二葉の里の北端にあります。月光山大日密寺と号する真言宗御室派の名刹で、もと南光月素月山妙壽寺と呼ばれていました。住古の開基並びに根本開山の僧名は詳らかではないですが、毛利家・福島家時代の寺伝によれば、明星院の前身妙壽寺は、天正十七年(一五八九)毛利輝元が、吉田郡山城より広島へ移城開府の時、御母儀の御位牌所として建立し、天正十七年より以前に此地存在していたと考えられています。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いの戦後処理により、毛利輝元は防長二か国に減封となり、福島正則が入封となりました。その折、伊予国右手寺の住僧栄鏡を招いて、寺領二百石を附して、真言宗新儀派(京都・智積院末)とし、祈祷寺に命じたのです。正則は芸備両国へ入部すると、毛利時代に領内の社寺に寄進されていた杜寺領のほとんどを没収していますが、明星院は特別の扱いを受けていたと伺えます。

広島市東区二葉の里2丁目6−25
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「鶴羽根神社」

tsuruhane jinjya
  • 神社

《御祭神・帯仲彦命、品陀和気命、息長帯日売命》鶴羽根神社は、建久年間(1190~1191年)に、源三位頼政公(安芸國加茂群西條郷領主)の室菖蒲ノ前が芸州知行せられる折の御遺言によって、元久年間(1204~1206年)に社殿を建立し、御祭神を観請したことが始まりと伝えられています。その際に、修理料として椎木山(現 二葉山)を寄進された為に、往時は椎木八幡宮と称されていました。その後は興亡を繰返しつつも、文政5年(1822年)頃の記録に依る当時は、広島城から東側・八丁堀以東全ての氏神とされていたと記されています。また、門守二神を奉斎、広島城隅・東北之鎮としていた安永4年(1775年)と記されています。天保4年(1834年)2月隣地の明星院鎮國堂より出火、社殿等ことごとく類焼しましたが、同年4月には仮社殿を建立、同6年4月現在地へ所替えとなり、安政3年(1856年)には全て再建しました。明治元年(1868年)朝令の神仏混淆御引分にもとづき、藩主浅野12代 長勲公の撰名により、神社背裏の山形が、鶴の羽根を広げた姿に似ている事から、社名を鶴羽根八幡宮と改め、同5年に鶴羽根神社へと改称。同時に、広島東部総氏神へ列せられ、同40年には神饌弊帛料供進社に指定されました。

広島市東区二葉の里2丁目5番11
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「尾長天満宮」

onaga tenmangu
  • 神社

《御祭神・菅原道真公、大穴牟遅神荒神、少名毘古那神》道真公は、承和12年(845)にご誕生。幼少期より詩歌の才能に恵まれ、勉学にも文武にも秀でた道真公は、天皇をはじめ多くの人々からの信頼を得て、学者・政治家としてご活躍されました。 右大臣まで上り詰めるという破格の昇進を遂げた道真公でしたが、志半ばにして無実の罪を着せられ、京都から大宰府に左遷。その際、当地に着船され、しばらく休息を取られました。平安時代まだこの地は広く海でありましたが、現在の尾長山に明星峰(尾長山)天神社という小さな社がありました。そして延喜3年(903)2月2日5、道真公は太宰府においてご生涯を終えられました。久寿元年(1154)、安芸国守平清盛主従がこの明星峰に参詣の際、山中にて大豪雨と落雷の災難に遭いましたが、九死に一生を得ました。清盛は雷雨の中で知らず知らずのうちに道真公の御加護を熱願していたことに気付き、深く神徳に感銘を受けました。よってこの一帯を信仰の山「菅大臣(かんだいじ)の峰」と名付け、峰に社殿を創建して、道真公の神霊をお祭りすることとしました。これが尾長天満宮の始まりです。

広島市東区山根町33−16
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「國前寺」

kokuzen ji
  • 国の重要文化財
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・釈迦如来》國前寺は、南北朝時代初期の暦応3年(1340年)、日蓮の弟子日像に師事した暁忍が開いたので、当時は寺の名前を暁忍寺と言いました。その後、江戸時代初期の明暦2年(1656年)に、2代藩主浅野光晟、正室満姫(自昌院)が菩提寺としたことから、本堂を満姫が、庫裏・客殿・山門等の諸堂を光晟が建立一新し、寺名も自昌山國前寺と改めました。寄棟造、二重屋根の堂々とした本堂は、残されていた棟札より寛文11年(1671年)の建築であることがわかっています。屋根が寄棟造で錣葺となっている外観が非常に特徴的で、本殿は耐火のために外壁を土塗とした構造物(塗籠)という手法を取り入れており、寺社建築ではかなり珍しいものです。向拝唐破風上の本瓦葺が谷無しで吹き下ろしている手法も城郭建築を彷彿させます。日蓮宗の本堂は西日本ではあまり古い遺構は残存していませんが、その中でも規模が大きく、保存状況も比較的よく、大変貴重な建物です。國前寺本堂 指定区分、國前寺庫裏 指定区分が国の重要文化財。國前寺山門及び参道を構成する境内地、金梨子地家紋散薙、國前寺所蔵自昌院関係写経が市の重要有形文化財です。

広島市東区山根町32-1