ふみだす ひろしま

広島市に点在する計74箇所の神社仏閣・文化遺産を、今回の企画用に撮影
写真家Minoru Obaraの世界観をお楽しみください

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「三瀧寺」

Mitaki dera
  • 献水
  • 国の重要文化財
  • 県指定重要文化財
  • 市指定重要有形文化財

《御本尊・聖観世音菩薩、三瀧寺多宝塔》広島市の北西の三滝山の谷間に位置する三瀧寺は、古くから三滝観音として親しまれています。境内にある多宝塔は室町時代に創建され、戦後原爆犠牲者の霊を弔うために和歌山から移された県の重要文化財で、塔内には国の重要文化財である木造阿弥陀如来坐像も安置されています。また、三瀧寺の名の由来ともなった三つの滝が流れており、この名水は平和記念式典の献水にも寄せられています。その他にも、重要有形文化財の金銅五鈷杵などたくさんの見所があり、春は桜、秋は紅葉の名所としても有名です。自然の美しさや水の音に心を和ませに、散策してみてはいかがでしょうか。

広島市西区三滝山411
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「夫婦楠
新庄之宮神社」

meoto kusunoki
shinjyounomiyajinjya
  • 神社
  • 天然記念物

《御祭神・家都御子神》本社叢は,クスノキ・タブ・サカキなどの常緑広葉樹、ケヤキ・エノキ・ムク・ムクロジュなどの落葉広葉樹からなり、戦前から変わらぬ姿を維持しています。その中、クスの大木2本は,新庄の宮の夫婦楠で,東方のものは婦楠(おんなぐす),西方のものは夫楠(おっとぐす)と呼ばれ,それぞれ胸高周囲5.35m、6.40mに達します。新庄之宮神社は,社伝によると,正慶年間(1332~4)に紀州熊野神社の分霊をこの地に勧請したものと伝えられています。社叢は、県の天然記念物に指定されています。

広島市西区大宮1丁目1−7
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「三篠神社」

misasa jinjya
  • 神社

《御祭神・伊弉諾神、伊弉册神、大年神、大国主神、宗像神、猿田彦神、八幡神、天満天神》三篠神社は、江戸時代に興った各々異なる神を祀る神社を起源として、時代が下る中でそれらの神社や他地域の神社と合併を繰り返すことで成立した神社です。永禄年間、現在の社の近隣に大年神を、大年代明神と称して創祀したのをはじめとして、天正年間、横川往還の東側、楠の木の大木の下に猿田彦神を、楠木大明神と称して創祀しました。その後承応三年、現社地に宮社を造立し、大国主神を、黒皇大明神と称して創祀しました。ここで、大年大明神、楠木大明神を合祀し、明治に至り、黒皇神社と改称します。その後、村の合併に伴い、計7社を統合した社号三篠神社となりました。全町の総氏神として信仰を集め、壮大なる社殿を造営しましたが、原爆のため、樹齢三百年に及ぶ境内木と共に焼失しました。幸いにも御神体は災禍を免れ、しばらくは元熊野神社跡である御旅所に遷御した後、昭和二十三年本殿一棟を造営して再遷御し、昭和四十八年に山手町鎮座である天神社を合併。以来、境内地は都市計画・開発のため狭まりながらも現在に至っています。 

広島市西区三篠町1丁目11-5
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「横川胡子神社」

yokogawa ebisu jinjya
  • 神社

《御祭神 事代主神》横川胡子神社は、安永8年(1779)に横川町の住人谷門二が町民の安栄を祈願して御神像を祀ったといいます。境内掲示による横川胡子神社の由緒は不詳ですが、社伝によると安永八年(一七七九)己亥正月廿日楠木村横川町の住人谷門二が町民の安栄を祈願して御神像を作りこれを祀ったといわれています。以来横川とその近隣の住民に商売繁盛の神として崇敬護持されてきました。昭和二十年、原爆により社殿を焼失しましたが、昭和二十四年現本殿を再建されました。(境内掲示より)

広島市西区横川町1丁目
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「横川橋おかえり観音」

yokogawabashi okaeri kannon
  • 菩薩像

《観音様》西区横川町の横川橋北詰東側に祀られている「おかえり観音」です。
観音様は、元々楠木町一丁目のある区画に小さな大師堂があり、この境内に十有余体の石仏が祀られ、信仰心篤き人々の手で永年に渡って護持されていました。
しかしながら、昭和四十年代の終りか、或いは五十年代の初めであったかははっきりしませんが、この地が再開発されることとなり、仏様たちはその場を追われてしまいました。いつも通る場所にこんな場所があったんだ、という発見のいい機会にして頂けたらと思います。

広島市西区横川町1丁目1
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「旭山神社」

asahiyama jinjya
  • 神社

《御祭神・品陀和気命、息長帯日売命、市杵島姫神、田心姫神、湍津姫神》当社の創建は、大変に古く不明です。伝説によると、御祭神である神功皇后が、仲哀天皇2年(西洋歴193年)に船で九州に向かわれる途中この岬にお登りになりました。その時出迎えたこの土地の県主が大きな鯉を献上したところ、神功皇后は、「おお、こひ、こひ」と大変お喜びになり、この地域を「こひ(己斐)」と呼ぶようになったと伝えられています。この後弘治元年(1555年)10月1日毛利元就が宮島で厳島の合戦に向かう途中戦勝祈願にお立ち寄りになられ、ちょうど朝日が昇り輝いていたことから「縁起がいい」と大変喜び「旭山八幡宮」と名付けたそうです。また、天正17年(1589年)に毛利輝元が広島城を造営する時、その場所を決める為の下見に当社に登ったと言われています。原爆が広島に投下されたとき、当社は爆心地から3㎞弱のため、爆風により社殿は倒壊しましたが炎上は免れました。

広島市西区己斐西町12−10
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「新宮神社」

shingu jinjya
  • 神社

《御祭神・伊邪那美命、泉津事解男命》新宮神社は、1356~1361年に紀伊国熊野三所権現(本宮、新宮、那智社)のうち新宮社を勧請し「光延の新宮大明神」として、現在の位置に鎮座されたのが起源で、祭神は泉津事解男命です。わが国の神様は、天照大御神を初めとして、伊邪那諾命と伊邪那美命との間に生まれられた神が多く、泉津事解男命もその中の一人で、すべての邪気を払いのける神として祭られています。熊野三所権現は前記の諸神を祭ったところであって、早くから諸国にその名が知られていました。古江の新宮神社は古くから泉津事解男命だけを祭り、明治初年に至り伊邪那美命を加えて祭神を二座としました。新宮大明神は古江中郷の氏神であり、その外に向原の氏神としては現在の古田小学校敷地の一部に八幡宮があって品陀和気命を祭り、また中郷の朝日山に大日社があって大日霊女命と須佐之男命とを祭っていましたが、明治四十年(1907)県の指令により、後の二社を相殿として、新宮神社に合祀されました。

広島市西区古江東町4-1
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「三輪明神広島分祠」

miwamyoujin hiroshima bunshi
  • 神社

《御祭神・大物主大神》三輪明神大神神社は、日本最古の神社として知られており、大神を「おおみわ」と読むところから、大神の中の大神として崇拝されてきました。御祭神、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は日本の国土を拓き、農業・工業・商業すべての産業開発、方除、 治病、造酒、製薬、禁厭、交通、航海、縁結びなど、世の中の幸福を増進する事を計られた人間生活万般の守護神 とされています。当分祠は奈良県桜井市の三輪山御鎮座の三輪明神大神神社より御霊を分祀していただいた神社です。

広島市西区古江上1丁目376−15
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「草津八幡宮」

kusatsu hachimangu
  • 神社
  • 市指定重要有形文化財

《御祭神・ 品陀和気命、息長帯日売命、帯仲彦命》社伝によれば、推古天皇御宇(593-628)宮島の厳島神社とほぼ同じくして、この入江の奥に多紀理姫命を海路の守護神として祭ったのが当神社の創祀。八幡神の奉斎の時期については、諸説が社伝として残り定かではありませんが、鎌倉時代に武蔵国渋谷郷(現、東京都渋谷区)から当地に所領を得て来住した社家始祖(右衛門大夫または右京大夫と伝える)が宇佐八幡宮より勧請し、古くより当地に祀られていた「多紀理の宮」と合祀して八幡宮を創建し、後に力箭八幡宮と称したと言われています。その後、大永四年(1524)に修造。昭和六年、近郷六箇村の氏子により境内地の造成と共に総ての社殿が再建造営されました。相殿神の宗像三女神の内、市寸島姫命と湍津姫命は明治二十五年厳島神社より御分霊を神馬にお乗せして正式に勧請され、素盞嗚神、倉稲魂神、金刀比羅神は明治末期神社統廃合の折、合祀されたものです。再建の度に高所へ遷され、現在では力箭山の中腹に鎮座しています。

広島市西区田方一丁目11-18
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「太光寺」

taikouji

《御本尊・元亀法難阿弥陀如来御尊像、阿弥陀様》1926年現在の広島市中区大手町の原爆ドーム付近に、「原光明」師が「天台宗三井寺派」の「石光寺」を設立し、当山(石光寺)が開山されることになったそうです。2009年4月29日、天台宗総本山「比叡山延暦寺」長﨟の小林隆彰大僧正が太光寺の名誉住職に就任され、これより以後は、当寺を「行者山太光寺」と正式に名称されました。現在、太光寺がある「行者山」は、広島県広島市西区の「田方」の地に位置しています。そして、その行者山の麓に広がる「草津」の地は、隣接する「古江」の地とともに、近世まで深い入り江を形成していて、天然の良港として利用されていたと伝えられています。また、それだけでなく、残存する資料の中から確認される行者山の周辺は、歴史の息吹を大いに感じさせる地でもあります。

広島市西区田方1丁目551−1
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「井口大歳神社」

inokuchi otoshi jinjya
  • 神社

《祭神・大歳神、須佐之男命、少名彦命》神武天皇が、井口に立ち寄られた際に船をつないだ場所を社地として万寿元(1024)年創建したと伝えられています。貞享2(1685)年再建の棟札が残っています。活疱明神とも称し、疱瘡(ほうそう=天然痘の俗称)の守護神として篤く信仰されていました。境内にはこの地方の自然植生(クロガネモチ・アラカシ・ヤブツバキ・ヤブニッケイなどがあり、樹齢480年超える椋の大樹があります)がよく残っています。大正2(1913)年龍の口の胡子神社、小己斐山の小己斐神社、胡面の岩神社を合わせて祀っています。(相殿神):大山祇神、岩長姫命、宇麻志葦茅比古遅命(うましあしかびひこぢのみこと)

広島市西区井口二丁目23-25