中区エリア
広島市に点在する計74箇所の神社仏閣・文化遺産を、今回の企画用に撮影
写真家Minoru Obaraの世界観をお楽しみください
「碇神社」
- 神社
《御祭神・大綿津見神》昔の中区白島町は「箱島」という小さな島であったと伝えられています。神社の前を行き来した船が、神社の近くに碇を下ろしたことが名前の由来となっています。碇神社は広島の城下町(旧市街地)で最も古い氏神様で、前身の「箱島大明神」は奈良時代に遡り、楽音寺(三原市)の神名帳にその名が記されていたほどの由緒ある神社でした。「大綿津見神(おおわたつのかみ)」と呼ばれる海上交通の安全や産業の繁栄を司る神様が御祭神です。宮島の厳島神社とは、偶然にも社紋が同じという不思議なご縁もあります。この場所一体が昔は海だったという事を想像するだけでも貴重な体験です。
広島市中区白島九軒町12-20「禿翁寺」
- 寺
- 市指定重要有形文化財
《御本尊・阿弥陀三尊立像》禿翁寺は浄土宗の寺院で、慶長年間に紀州和歌山光恩寺の開山、信誉禿翁上人により開基。その後、元和5年(1619年)紀州和歌山から浅野長晟に従って広島入りした弟子の僧、寂誉存的によって紀州の禿翁寺が移されました。起立は寛永年間と知新集にあります。本尊の木造阿弥陀三尊像は、安阿弥作と伝わる阿弥陀三尊立像は開山当時からのもので、室町期の作として広島市の重要文化財に指定されています。一般の方の拝観はできません。原爆の爆心から1.5kmにある当寺の境内には、被爆により5体となった等身大に近い石の六地蔵尊、同じく被爆した紅梅やかえで等の被爆樹木もあり、貴重な歴史の流れを感じます。
広島市中区東白島町8-8「妙風寺」
- 寺
《御本尊・久遠実成釈迦如来》妙風寺は日蓮宗の寺院で、蓮の花がとても美しいおすすめのパワースポットです。この寺はもと紀州(和歌山県)名艸郡にあって大乗院と言われ、天正十四年の頃、妙蔵院日経上人が関東弘通の折、鬼子母尊神を感得し一宇のお堂を建立し開創せられたもので浅野藩士達のお寺でありました。第二祖の本行院日意上人の時代、彼は能書家であり、また茶道にも達しておられたので、文人墨客と云われるような人々との交際も多く、その中でも加藤風庵公や上田宗固翁などは代表的な人々でありました。とても芸術溢れた場所でもあります。当時の芸術家が集まる貴重な場所の一つでした。
広島市中区東白島町1−18「宝勝院」
- 寺
《御本尊・阿弥陀如来》天正年間、毛利輝元公広島築城の際、広島城の鬼門の守護として慶長三年(一五九八年)、古くから箱島(白島の古名)に祀ってあった掟明神社を造営した寺院です。その責任者、築城奉行二宮太郎右衛門就辰(輝元公の叔父)の子孫、増仙法印は、開基(寺院創立の僧)として伽藍を建立させ、社領五百石を支給されました。その後明治初年神仏分離の際に、碇神社と境内を分離縮小され、昭和二十年八月六日、原子爆弾に被爆し諸堂ごと焼失しました。本尊阿弥陀如来は桃山時代の作であり鎮守には、若宮稲荷と当護稲荷という二つの稲荷大明神を祀っています。碇神社にとても近く、境内には昭和五十一年に水子地蔵尊が建立され霊験あらたかなお地蔵さんとして参拝者が多く訪れる場所です。
広島市中区白島九軒町12−4「広島城跡」
- 史跡
- 市指定重要有形文化財
《築城主・毛利輝元》天正16年(1588)、毛利輝元は初めて京都へ向かい、秀吉に謁見しました。その時に大坂城や京都市上京区の西陣にある聚楽第を訪れ、その豪壮さや町の繁栄を目の当たりにした輝元は、郡山城がすでに時代遅れであることを悟り、新しい城づくりを決意したと言われています。そして中国地方一帯を治めることができる城と城下町建設のために城地として選んだのが祖父毛利元就が重視していた広島湾頭だったのです。翌天正17年(1589)、太田川デルタ周辺の山々から城地を見立て、築城を開始しました。当時、「五箇」と呼ばれていたこの地が「広島」と名付けられたのはこの時であったとも言われています。広島城の経歴を改めて学ぶ事で、広島の歴史がより面白くなります。その他、敷地内に市の「重要有形文化財」が3箇所あります。
広島市中区基町21−21「広島護国神社」
- 神社
《戦没されたご英霊およそ九万二千余柱》明治元年12月、明治維新の戊辰の役において陣没された高間省三命以下七十八柱を、二葉の里に新しく造営された「水草霊社」に奉祀されたのが創建です。以来、大東亜戦争に至るまでの幾多の事変戦争において、戦没されたご英霊およそ九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の神霊をお祀りしています.同14年に広島護国神社と改称されましたが、昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し、御社殿すべてを焼失しました。その後同地に小祠を設けて祭祀を続けてきましたが、広島市の復興に伴い移転を余儀なくされたため、復興奉賛会が結成され県民より淨財を募り昭和31年秋現在の広島城跡に新社殿が造営され、待望の復興を遂げました。広島城の近くにあり、中心街に位置します。
広島市中区基町21「縮景園」
- 名勝
《命・浅野長晟》歴代藩主に愛好された名園 元和5年(1619年)に福島正則が信濃国川中島(かわなかじま)に移封された後、紀州和歌山から浅野長晟が新しい広島藩主として入国しました。この縮景園は、その翌年、浅野家の別邸として造られたもので、「泉邸(せんてい)」の名でも親しまれています。長晟の命を受けて築庭にあたったのは、当時の家老で、茶人としても名高い上田宗箇(うえだそうこ)でした。彼は、中国浙江省(せっこうしょう)の西湖(せいこ)の風景をまねて庭を造り、そこから「縮景園」の名が付けられたと言います。庭園の歴史、日本人の美意識の再確認にも繋がる場所の一つと言えます。
広島市中区上幟町2−11「橋本町厳島神社」
- 神社
《御祭神・市杵嶋姫令、田心姫令、湍津姫命》被爆橋梁・京橋のふもとに鎮座する橋本町厳島神社。宮島厳島神社と同じ御祭神である宗像三女神が祀られています。とても小さな神社ですが、被爆鳥居や被爆灯籠があり、歴史を感じる神社です。例年、十七夜祭と言って7月17日に宮島管弦祭に呼応した祭礼が行われます。宮島厳島神社と河と舟でつながる歴史を紐解き、広島の海上交通についての歴史を調べるのもおすすめです。
広島市中区橋本町8−4「カトリック幟町教会
世界平和記念聖堂」
sekai heiwa kinen seido
- 教会
- 国の重要文化財
《設計・村野藤吾》世界で最初に被爆した広島の地に平和のシンボルとして献堂されたカトリック教会です。聖堂の建設は、1945年8月6日の原子爆弾の惨禍に身をもって体験された、当時の広島カトリック幟町教会主任司祭フーゴー・ラッサール神父が、原子爆弾の犠牲となられた人々の追憶と慰霊のため、また全世界の友情と平和のシンボルとして発案されました。これに応えてカトリック信者を始め、世界各地の真に恒久平和を願う人々の発願と多大な寄付により、1950年8月6日に着工され、5年の歳月を重ねて1954年8月6日に完成、献堂され「世界平和記念聖堂」と命名されました。設計は当時のデザイン設計の第一人者であった村野藤吾氏が担当し、聖堂入口の7つの秘跡を表した彫刻は円鍔勝三氏の作品です。建築家村野藤吾氏の戦後における代表的建造物として2006年7月に国指定重要文化財となりました。
広島市中区幟町4−42「原爆ドーム
旧広島県産業奨励館」
kyu hiroshimaken sangyou shoureikan
- 史跡
- 世界遺産
《平成8年世界遺産登録》原爆ドームは,昭和20年(1945)まで広島県産業奨励館と呼ばれていました。大正3年(1914)細工町の元安橋の東河畔に,広島県物産陳列館として建築され,大正4年(1915)に開館しました。館の業務は,県内の物産販路開拓や生産品の陳列及び委託販売等でした。しかし,戦争が激しくなると,産業奨励館の展示も徐々に縮小され,昭和19年(1944)3月31日には館の業務は廃止されたました。戦局も悪化した昭和20年(1945)の8月6日,原子爆弾が産業奨励館の東方約150m,高度約580m前後の地点で爆発し、産業奨励館も爆風と熱線を浴びて大破,全焼したものの,建物本体は奇跡的に倒壊を免れました。当時,この建物内にいた約30名の職員は全員が亡くなっています。戦後,原爆ドームは原爆の惨禍とともに平和を訴えるシンボルとして保存され,昭和42年(1967)と平成元年(1989)には保存修理が行われています。平成8年(1996)には,厳島神社とともに世界遺産に登録されました。
広島市中区大手1−10「竹屋地蔵尊」
- 菩薩像
《竹屋地蔵尊》中区富士見町の平和大通り緑地帯にお祀りされている「竹屋地蔵尊」です。お堂の左側に宇品道の道標が再建されています。1945(昭和20)年8月6日、原爆が投下されるまでは竹屋橋近くに鎮座されていたそうですが、現在はここ富士見町の平和大通り緑地帯に移され鎮座されています。夜泣き地蔵とも呼ばれており、子供の夜泣きにご利益があると言われております。身近にある歴史ある場所から様々な発見をしてみてください。
広島市中区富士町「白神社」
- 神社
- 史跡
- 天然記念物
《御祭神・菊理姫神、伊邪那伎神、伊邪那美神》元々この一帯は海で、当社の地点には海面から突き出た岩礁があったそうです。その為、この岩礁に衝突する船が後を絶たないため、当時の船人が岩礁上に海路安全を願って、白い紙をたてたと言われています。白紙(しらかみ)を守り神の象徴として祠を建てて祀るようになったのがこちらの白神社の由縁です。そして、この白紙にちなみ「白神(しらかみ)」と呼び、住民の信仰を集めたそうです。天正19年(1591年)9月には、広島城を築いた毛利輝元により新しい社殿が建立。広島城下の総産土神(そううぶすながみ)とし最盛期には近隣の旧国泰寺に連なる広い境内を持つ神社に発展。毛利輝元公が男子(秀就)の初宮詣に参拝されたと記述が残っております。市内の中心地に位置し、オフィスや繁華街が立ち並ぶ中、地元の方々が多く参拝されています。※ 相殿・天御中主命、高皇産巣霊神、神皇産霊神、天照皇大神/白神社の岩礁。
広島市中区中町7−24「旧国泰寺愛宕池」
- 史跡
《創建・恵瓊》旧国泰寺の境内。この池は、ここに国泰寺の鎮守愛宕社があったことから愛宕池と呼ばれるようになったものです。愛宕社は国泰寺開基当時(1601年)から存在しており、この池は当時のおもかげを残しているもので、城下町形成初期の遺構として貴重なものです。また、この池は、白神社の境内に連なる岩礁の一部を利用して池としたもので、城下町形成初期の頃の海岸線は、この付近であったと推定され、三角州形成の一つの里程標としても意味深いものです。なお、池石の一部に彫られた龍は、満潮時には遊泳したという伝説を伝えています。国泰寺は、毛利氏の時代に、僧恵瓊(えけい)が安国寺として創建し、福島氏の時代に改めて国泰寺として開基されました。(1601年)その後、浅野氏が藩主として入国し、その菩提寺として歴代藩主の尊敬をうけました。白神社の近くに位置して、この辺一体が昔どのような場所だったか一度立ち止って想像してみるのもおすすめです。
広島市中区中町7「頼山陽史跡資料館」
- 史跡
- 資料館
《頼山陽居室》頼山陽(らい・さんよう 1780~1832)江戸時代後期の日本を代表する漢学者で、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍しました。歴史の分野では、没後に出版された『日本外史』がベストセラーとなり、幕末から明治初期の人々に大きな影響を与えました。文学の分野では、数多くの詩文を作り、川中島の合戦を題材にした「鞭声粛々」の詩や、天草洋の風景を詠んだ「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などは幅広く愛誦されています。また、美術の分野では、能書家として著名で、絵画についても「耶馬溪図巻」などの優れた水墨画をのこしています。日本の芸術世界に触れるいい機会にしてみてください。
広島市中区袋町5−15「旧日本銀行広島支店」
- 史跡
- 市指定重要有形文化財
《設計・長野宇平治、日銀臨時建築部》旧広島支店の建物は、古典様式の優れた外観を有する広島の昭和初期を代表する希少な歴史的建築物であり、また、1945年8月6日に、爆心地からわずか380mという近距離で被爆しながらも、その堅牢性から建設当時の姿を現在もほぼ残しています。被爆時においては、1階と2階はよろい戸を閉じていたため、内部の大破を免れましたが、3階は開けていたため全焼しました。また、被爆当日は、食堂などが負傷者の収容所となりました。そして、翌々日の8日には、早くも銀行の支払い業務が開始されるとともに、被災して営業が不可能となった市内金融機関の仮営業所が設置されたという、金融面から広島の復興を支えた史実を伝える貴重な被爆建物です。その後、1992年3月に、広島支店が中区基町に移転し、旧広島支店は銀行としての役割を終えましたが、1993年6月に、「旧日本銀行広島支店」として被爆建物台帳に登録され、2000年7月に、広島市の重要有形文化財に指定され、現在一般公開されています。
広島市中区袋町5−21「中の棚稲荷大明神」
- 神社
《御祭神・大国主神》魚市場のあった中の棚(現立町)。昔、広島城下に三軒の魚問屋がありました。西魚屋町と京橋町と東魚屋町です。ここはその中間にあっtたので”中ノ棚”と呼ばれ、市中で一番古い歴史を持つ魚市場です。元和五年(1619)浅野長晟が紀州より入府するとき、御肴御用商人「天満屋治兵衛」と「七右エ門」が随行し、東魚屋町に住み、代々魚問屋を業とされ、その後海田屋、周防屋、阿賀屋、吉田屋などの魚問屋が軒を並べた記録があります。中ノ棚稲荷はこの魚市場の守り神です。またここにはカマボコ商も数軒あって商売は繁栄していました。この町の東は八丁堀の水が南に通じて、今の堀川町を南に向かって竹屋川として流れていたもの。また、東魚屋町西寄りの小路は「新小路」と呼ばれていました。”中ノ棚稲荷”はもと餅屋某という者の鎮守であったものと伝えられていますが、今は広くこの辺一帯の商売人の信仰の中心となって栄えています。
広島市中区立町1「広島平和記念資料館」
- 資料館
- 国の重要文化財
《初代館長・長岡省吾》広島平和記念資料館は、原子爆弾による被害の実相を世界中の人々に伝え、ヒロシマの心である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与することを目的に、1955年(昭和30年)に開館しました。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。まちはほとんどが破壊され、多くの人々の生命が奪われました。かろうじて生き残った人も、心と体に大きな痛手を受け、多くの被爆者が今なお苦しんでいます。平和記念資料館は、東館・本館からなり、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示するとともに、広島の被爆前後の歩みや核時代の状況などについて紹介しています。このほか、被爆者による被爆体験講話会などを実施したり、平和学習のための資料の貸出しも行っております。奥深く歴史を学ぶ事が、新たな平和活動につながる機会になればと思います。
広島市中区中島町1−2「天満神社」
- 神社
《御祭神・菅原道真大神》天満神社は、毛利輝元卿が広島に城を築き高田郡吉田町から入府(にゅうふ)した時、吉田の天神山(てんじんやま)からこの地に遷(うつ)して奉斎(ほうさい)したのが始まりです。当初この地は、「舟町」と称していましたが、これにより「天神町」と改めました。元和5年(1619年)、太田川の洪水で城の石垣が被害を受けたため、福島氏初代広島藩主・正則は修理を行いましたが、このとき幕府に無断で修理を行ったということで、領地を移されることになったそうです。この年の8月8日、長晟一行は和歌山から広島まで船でやってきました。広島城に入城するまえ、天神町(てんじんまち・今の中区中島町)の天神坊(満松院(まんしょういん))で休憩したといわれています。
広島市中区中島町6「廣瀬神社」
- 神社
《御祭神・市杵島比賣命、多岐理比賣命、多岐津比賣命》廣瀬神社のご由緒は天正の時代、この場所に廣瀬弁財天というお社があったのが始まりとされています。その後毛利輝元がこの地に鎮守社として廣瀬市杵島大明神と称して厚い信仰を集めました。明治時代には社格が村社と定められ、境内には樹齢300年以上の大樹や森があり、諸々の社殿がある大きな神社でしたが、昭和20年の原爆によって大きく焼失。 戦後市街地の区画整理の結果、境内の広さは狭くなりましたが、拝殿や本殿が造営され、昭和51年にかけて境内の整備が行われました。広い境内には樹齢300年以上という大樹、杜をなし、 諸々の社殿を連ねた宏大な社だったそうですが、戦後、区画整理の結果、境内は現在のように縮小されたそうです。特に御朱印帳をお持ちの方におすすめの参拝場所です。
広島市中区広瀬町1−19「伝福寺(曹洞宗)」
- 寺
- 市指定重要有形文化財
《御本尊・文殊菩薩、木造菩薩坐像》伝福寺は材木町(現在、平和記念公園内にある広島国際会議場周辺)に所在していましたが原爆投下により壊滅。昭和26年(1951年)に都市計画で現在地に移転しました。その為、本尊仏を除く古文書等が全て焼失しており、創建年代等は不明ですが、本尊仏は慶長19年(1614年)の造像であり、開創もその頃ではないかといわれています。開山は、幽屋宗玄大和尚(伝福寺二世)が師の広島国泰寺三世・十岫宗智大和尚(?〜1660年)を拝請したものと思われ、開基は育翁養公座元です。伝福寺の本尊仏の膝裏には巻子を巻いた軸が打ちつけてあり、この銘文の中には「もん志ゆ」と墨書で記されています。また、左手に蓮華を持っていることから考えてみると、本仏像は文殊菩薩と考えることができます。
広島市中区昭和9−3「旧重谷家土蔵
(伝広島城土蔵)修道高」
- 市指定重要有形文化財
《広島藩藩校の歴史》2014 年 8 月 28 日に本校敷地内へ移築・復元された旧重谷家土蔵(伝広島城土蔵)が,この度広島市 指定重要有形文化財の指定を受けることとなりました。 旧重谷家土蔵は,広島城内の広島藩学問所にあった可能性が高く,かつ現存する被爆建物として歴史的・文化的に価値があるとされます。また,調査の結果,旧広島城郭内にあった建物としては,他に 多家神社宝蔵(安芸郡府中町)が現存しているのみであり,この土蔵も歴史的・文化的価値が大変高 いことが認められています。
来年 2019 年は浅野長晟が広島城に入城し 400 年を迎える年となります。広島藩の藩校の流れをくむ修道高では,この土蔵を後世へと残すため保存し,教育活動に活かしていきたいと考えていらっしゃるそうです。
「空鞘稲生神社」
- 神社
《御祭神・宇迦之御魂神、宇氣母智神、和久産巣日神》「空鞘神社のおこりは大変古く、分祀の年代は明らかであるものの起源ははっきりとしていません。後陽成天皇のご時世、豊臣秀次がまだ関白だった時代、文禄元年1592年、毛利輝元が陰陽両道の守護として広島城廓の築城を告げた冬の時期には、この地に二社がありました。おおきい社を空鞘大明神、小さい社を彦山明神(現在の幸神社)といいます」と、伝えられています。この他の私記等の諸書によれば天文年間(1532~1555)の御創建といわれています。その後隆興の一途をたどり 毛利氏の信仰は深く、かなりの社領を有していました。また「空鞘」の名は、社頭の松の大木に刀の鞘のみが掛って居た事によりその社名となったと伝えられており、昭和40年(1965)の町名改正まで神社周辺は空鞘町と称していました。地元の方々との繋がりも強く、老若男女の多くの層の方々が参拝に訪れています。
広島市中区本川町3丁目3−2「天満宮」
- 神社
《御祭神・菅原道真公》広島天満宮は、火災の多かった当地(小屋新町)が、天明8年(1789)町名を天満町と改めたことから、文政5年(1822)に天満宮を田中屋清左衛門の別家内に勧請、文政10年(1827)当町北側に路を開いて遷座したといいます。天満宮は天満町本通り筋の北側にあり、境内八十三坪九合九勺、祭神は菅原大神で、天明八年の勧請と言われていて、明治四十二年十月八日に罹災し、殿宇が全て焼失。大正元年九月にこれを再建しました。今の殿宇には正殿・祝詞殿・拝殿・鳥居等があります(「廣島市史社寺史」より)。旧山陽道という事もあり、昔ながらの老舗も立ち並び、とても歴史ある場所です。
広島市西区天満町9-7「衣羽神社」
- 神社
《御祭神・市寸嶋比賣命、多紀理毘賣命、多岐都比賣命》この神社は、天満川と本川の河口に挟まれた中州、江波山公園という小さな山の北東斜面に鎮座しています。
創建年月日は不明確ですが、広島市内随一の由緒正しい古社。安芸の国の国司所祭の官社を収録した古代の神名帳「官社一百八十社」の中に三位衣羽明神と記載されています。明治四年(1871)官の指揮により旧名に復し、衣羽神社と改めました。江波は、かつて広島湾に浮かぶ「江波島」という島で、江波の村社である「衣羽(えば)神社」には約680年前の記録があり、島には約700年前には人が住んでいたという記録が残っています。約400年前毛利輝元によって広島城が築かれると、人の力によって急速に干拓が進み、明治時代には舟入と陸続きに。現在の地形になったのは戦後の埋め立てによるものです。※相殿祭神 大綿津見神・大穴牟遅神・宇迦之御魂神・少名毘古那神・稚産霊神・倉稲魂神・保食神
「江波山気象館」
- 資料館
- 市指定重要有形文化財
《旧広島地方気象台》全国でも珍しい気象をテーマとした博物館です。施設は広島市が所有し、公益財団法人広島市文化財団が指定管理者となっており、市の施設であるが広島市域の天気予報も発表しています。1934年(昭和9年)竣工した広島地方気象台の本庁舎が、1987年(昭和62年)中区上八丁堀の合同庁舎へ移転したことを機に、気象庁から広島市へ移管し、博物館として開館したもので、建物自体は1945年(昭和20年)広島市への原子爆弾投下にも耐えた現存する被爆建物であり、広島市重要文化財に指定されています。
広島市中区江波南1丁40−1「江波山のヤマザクラ」
- 天然記念物
《樹齢170年》平成8年に広島市天然記念物に指定され、広島市中区江波にある江波山公園に咲く推定樹齢約160年、高さ約14mの大木です。全国でも類を見ない珍しい品種で、花びらの数はヤマザクラの5枚に対し、5〜13枚の花びらがありびっしりと咲きます。見頃は、3月下旬から4月上旬。江波山気象館横でも若木を植樹された3本のヒロシマエバヤマザクラを観ることができます。「えばやまざくら」とは、広島市中区江波にある江波山公園に咲く山桜の大木です。
昔から地元の人々たちの間では「変わったさくらがある」と言われていましたが、平成6年4月京都の桜守である、第16代佐野藤右衛門(さの とうえもん)氏による鑑定の結果、非常に特異な花で、過去の文献にもなく、全国でも類を見ない珍しい品種であることがわかり、「ヒロシマ エバヤマザクラ」と命名されました。