南区エリア
広島市に点在する計74箇所の神社仏閣・文化遺産を、今回の企画用に撮影
写真家Minoru Obaraの世界観をお楽しみください
「大原神社」
- 神社
《御祭神・伊邪那岐命、伊邪那美命、火具土神,須佐之男命》1558~1570年、悪病が流行し多くの人が亡くなり、火災により多くの家屋が焼失しました。妙見山(向洋半島南東部)に社を建立して祈願すると、悪病が退散し火災も鎮まったそうです。 その後、妙見山から現在地に遷座。遷座した年月は不詳です。(相殿) 大綿津見神、事代主神、豊玉毘売神、宇賀御魂神、天之常立神、大国主神、奥津日子神、奥津比売神、火具土神となっており、御祭神である国産みの伊邪那岐命、伊邪那美命、を古事記などで調べてみるのも日本の歴史を学ぶ良い機会になると思います。
広島市南区向洋大原町37−1「邇保姫神社」
- 神社
- 市指定重要文化財
《御祭神・品陀和気命、息長帯日売命、帯仲彦命、爾保都比売神》邇保姫神社はその昔、神功皇后が三韓征伐の帰途にこの海道を通られた際、邪気祓いのため射った白羽の矢が香護山(現在の黄金山)に当たったことから、その矢を神体として祀ったことが始まりとされています。仁和元年(885年)豊前国宇佐八幡宮より分霊を勧請して正八幡宮と称し、江戸時代の文章には、爾保島氏神本浦正八幡宮と記されています。仁保の獅子舞をはじめ、仁保の人々と歴史をともにしてきた地域に縁のある神社であり、関連する奉納品も多数納められていました。原爆投下時には、爆風により社殿が傾いたものの倒壊を免れており、被爆者の救護所として利用されました。2007年に火災によって本殿や拝殿などを焼失したものの、2010年に復興造営されました。
広島市南区西本浦町12-13「ハワイ移民資料館
仁保島村移民の歴史」
nihojimamura imin no rekishi
- 資料館
旧仁保島村の周辺では、簡単にハワイ移民と縁のある家を見つけることができます。それだけでなく多くのハワイ移民を誕生させた地域です。「おらが村の自慢のものは海外移民と盆踊り」、広島市と合併する直前に発刊された仁保村誌の記述は、移民が他の市町村より突出していたことを如実に示しています。しかし、ハワイと広島の交流は、戦後のハワイ広島県人会が中心となった、広島への復興募金活動を境にして次第に薄くなってきています。「ハワイには日系人が多い」、若い人達ばかりか年配の人たちの中にもその理由がわからない人が増えています。こうした状況を受け、ハワイ移民の歴史を正しく後世に伝えたいとの願いから、移民の歴史資料館は設置されました。ここでは、ハワイが移民を必要とした理由や、広島からの移民が多い理由について知ることができます。
広島市南区仁保3丁目17−6「神田神社」
- 神社
《御祭神・仲哀天皇、神功皇后、応神天皇》神田神社は、文亀三年(1503)当時祇園町の武田山にあった銀山城の城主として安芸の地を治めていた武田元繁が、祖国甲斐の国、今の山梨県から城の守護神として安芸郡牛田村、今の東区スポーツセンターあたりに奉遷したのが始まりだと言われています。その後武田氏は毛利元就に滅ぼされ社殿は荒廃しましたが、元就の孫の毛利輝元が広島城を築城して入城すると、輝元は神田神社の荒廃を憂いて天正十九年(1591)武田氏の遺臣池田宮内を神主として社殿を再建し、広島城の守護神として祭ったそうです。毛利氏に替わって福島正則が城主となると、福島正則は各地の社寺の領地を悉く没収し神社は再び荒廃し始め、その荒廃ぶりを嘆いた地元の村民等の篤い願いを福島正則はやっと聞き入れ、神社の護持を村民等にまかせるようになり、神田神社は牛田村の氏神様として牛田地区の村民等によって祭られるようになりました。
広島市南区宇品御幸四丁目1-15「広島大学医学部医学資料館」
- 資料館
- 国の重要文化財
《身幹儀(星野木骨)》日露戦争で派兵基地となった広島は、その後も兵員や軍需物資の補給をおこなう基地としての整備が進められていきました。広島陸軍兵器支廠に昇格したことで兵器庫が増設され、1904年(明治37年)から第1〜10兵器庫が、1920年(大正9年)から第11〜17兵器庫が、2階建てのレンガ造で建てられました。爆心地から2.75キロメートルで被爆。比治山の陰だったこともあり、屋根や窓に被害を生じたくらいで建物に大きな影響はなく、臨時救護所として多くの被爆者の救護が行われました。現在、兵器庫はすべて取り壊されていますが、医学資料館を新築する際に、最後の1棟だった11号館で使用されていたレンガを一部利用。外観は当時のままを復元しています。広島の歴史の奥深さや建築、世界と日本の医学の進化など様々な角度から多くのことを学べる場所となっています。
広島市南区霞1丁目2−3「比治山貝塚」
- 史跡
比治山の南麓に位置する縄文時代(約12,000~2,300年前)の貝塚。当時は太田川の三角州が発達しておらず,貝塚は広島湾奥の島の汀線付近にあったと思われます。戦時中の軍の工事によりその主要部分が破壊されましたが,昭和23・24年(1948・1949)の調査では,地表下30cmに厚さ約1.5mの貝塚を確認。貝層は,上・下の2層に分かれ,上層から縄文時代晩期前半(約2,500年前)の灰褐色磨研土器,下層から縄文や同心円状の磨消縄文をめぐらす縄文時代後期後半(約3,000年前)の土器などが出土しています。石器としては,石鏃(せきぞく),石匙(せきひ),漁網に使用される石錐(せきすい),自然遺物としては,シカの骨,タイの骨,ハマグリ,カキ,アサリ,シオフキなどの貝類が出土しており,狩猟や漁撈を中心とした生活が明らかになりました。何万年前の営みを想像する事で新たな気づきや生きるヒントが見つかるかもしれません。
広島市南区比治山公園6−6「多聞院」
- 寺
- 市指定重要文化財
《御本尊・毘沙門天王、絹本著色両界曼荼羅》真言宗の寺院です 。詳しくは金剛吉祥如意宝珠山光明遍照寺多聞天王院と称します。始めは、高倉上皇の夢枕に立たれた縁起から、安芸郡音戸幡見(波多見)に堂が造られ、約370年後天文年中に毛利元就によって高田郡吉田に移され、毛利輝元の広島築城に伴って新庄村に移築遷座されました。後の福島正則は慶長9年(1604年)にこの比治山の地を選んで本堂を建て遷座して今に至っています。正則は当山初代俊恵に金剛界胎蔵部の双幅の両界曼荼羅と三条小鍛冶宗近の宝剣一振を寄進し、お祝の文書も残っています。両界曼荼羅は昭和53年に広島市指定の重要有形文化財に指定。境内には持佛堂、毘沙門天本堂、被爆した鐘樓、頼家之墓(県の史跡)、植田艮背之墓(県の史跡)等があります。
広島市南区比治山町7−10「稲生神社」
- 神社
《御祭神・豊受大神、大国主大神、稲生武太夫公霊神》元和5年(1619年)創建と言われ、商売繁盛の稲生社で信仰されています。享保18年の神社周辺の大火で神社と大工・忠七の家のみ焼失を免れたことから火災除けの守護ともされています。のちに「稲生実録物語」「稲生物怪録」で知られる稲生武太夫が、御祭神に祀られてからは、武太夫の人格と「魔除の小槌」の縁起により魔除け・厄除け・強運(負けない)の御守護になっています。「稲生物怪録」は江戸時代中期の広島県三次を舞台とした、稲生平太郎と人間をおどかしにやってきた魔王たちとの不思議な体験を綴った物語です。物語には多くの怪しげな妖怪が現れるだけではなく、現在も存在する場所や、主人公の平太郎をはじめ当時の三次に実在した人物が登場します。こちらを調べてみるのも面白いですよ。
広島市南区稲荷町2−12